二式艦上偵察機
艦上爆撃機 『彗星』
夜間戦闘機 『彗星夜戦』
 




  
愛知 彗星一二型戊 『彗星夜戦』(模型展示コーナー


開発までの経緯
1936年(昭和11年)、海軍は新型艦上爆撃機の試作を海軍航空技術廠・山名正夫中佐の下で開始した。これは十三試艦上爆撃機として計画され、敵の行動半径外から攻撃できる航続性能、敵機の迎撃を振り切れる高速性能を求めた機種として開発された。

『彗星』開発に関し、もっとも問題だったとされたのが空技廠による開発だったというものがある。まさにこの一点において『彗星』の不運が始まったといっても過言ではないと思う。(異論はあるだろうが・・・)
当時の空技廠の技官たちが、妙にエリート意識をもって職務に当たっていたことは否めないだろう。そんな彼等が開発し、作り出した機体は意外と多かった。1935年(昭和10年)の時点で各機種合わせて7種類の機体が空技廠によって開発されていたが、その中で好評だったのは九三式中練(通称:赤とんぼ)だけである。
実用航空機として、空技廠が開発したと自信を持っていえる機体を開発したい。こんな想いが空技廠に新機体開発に走らせ、また海軍がそれを許してしまった。
新開発が決定した機種が艦爆(艦上爆撃機)という機種であり、当時次期艦爆選定のために購入した独ハインケル社のHe118が性能的に不適合と判断され不採用となった。同時に次期艦爆として競作が進められた結果、愛知と九九式艦爆が採用に到った為、その次の艦爆として空技廠が十三試艦爆として開発を開始したのである。



 
十三試艦爆の開発
1936年(昭和11年)、独国から輸入したHe118を検討したところ性能的に海軍の求める新艦爆としては不採用となった。そのためこれを参考に新型艦爆の開発が進められた。
本機は民間航空機メーカーに発注する際に行われる仕様書を定め、複数のメーカーが試作機を開発。これを競合させて新機種を選定する方法とは違い、自ら目標とする高い数値の仕様書を定め、これに近づけようとする努力するという方式が採用された。
その上艦上爆撃機という限られた数しか生産されない予定の機種であった事、また実験機的要素が多分に含まれていた事などが上げられた。
開発を担当した山名正夫技師(工学博士。後に技術中佐)は本機開発に当たり、当時空技廠科学部から研究的に提案が進められていた速度記録機の試作を、純粋な実験機として開発するのではなく、後から改造することによって実用機として利用できるものを作ろうとした。そこに今回の十三試艦爆開発の話が舞い込んでくる。また山名技師自身、艦爆という機種にもっとも関心を示していたこともある。
このため、半研究機的要素の強い試作機の開発がスタートしたのである。

海軍が目標として掲げた敵の行動半径外から発艦し、速やかに接近して敵機を振り切って爆撃を敢行。そして一撃離脱で戦場から脱出する。こんなムシのよい機体の開発するには途方もない性能を必要とした。
そんな状態から算出された性能要求値を纏めると以下のような数値となった。
   
十三試艦爆 計画性能値
航続距離 爆装正規状態 1,480km(:250kg爆弾×1発)
爆撃過荷重状態 2,220km(上記状態+機内燃料満載)
速度性能 巡航速度 426km/h
最大速度 519km/h

この性能は速度性能において一二試艦戦(後の零戦)において最大速度500km/hだったことを考えれば如何に過大であったか分かるだろうか。しかも先に述べたように、これは海軍によって押し付けられた性能要求値ではなく、自ら目標値として定めた数値であった。
このため山名技師はこれらの数値を如何にしてクリヤーするかを考え、そして使用状態を想定し、大量の生産はないだろうという想定の下、多少構造・機構が複雑になろうとも問題ないだろうと考え、なによりも性能を追求するという方針であった。

もう一つ『彗星』を難物化させた要因としてDB601という液冷発動機の選定が上げられる。この発動機は独ダイムラー・ベンツ社から生産顕を得、日本国内でライセンス生産を行える液冷発動機であった。
1938年(昭和13年)の時点において、小型機用発動機としては最強力の部類に属し、液冷発動機故の形状により機体の機種を細く、空気抵抗の減少を見込める。それは速度性能の向上に繋がる要因であり、研究機的要因の強い十三試艦爆にとっては非常に魅力的であった。
速度性能は空冷に比較し28〜37km/hの優速が見込め、細い機種は前方・下方視界が広く、艦爆にとっては好都合であった。

もう一つ、『彗星』の構造的問題点を見るうえで重要な点が存在する。
それはフラップを初めとする各部の駆動系に従来の油圧駆動ではなく、電気式駆動系を多用したことである。電気式を採用した理由は簡単である。従来整備上の問題とされてきた油漏れ等に対処するためであり、それは重量軽減に結びついた。だがそれにも欠点があった。油圧式に比べれば確かに電気式のほうが有利な点は多い。だがそれは高い機械工作精度があればこそであり、当時の日本にとっては複雑化するギアボックスは製造工程を増やすだけであり、また戦地における信頼性を低下させた。なによりモーターとバッテリーの性能が低かった。
この電気式駆動の欠点がもっとも現れたのが脚部の収納ギミック部分であり、『彗星』の離着陸時の信頼性低下に繋がった。

『彗星』開発に当たり特に苦心したと言われるのが空気抵抗の減少がある。この抵抗値減少のために爆弾は胴体内搭載方式を採用し、風防の高さを抑える為に操縦席を低く。そのために搭乗員の従来式落下傘を座布団式から背負い式に変更した。胴体形状、翼形状を工夫し、特に液冷発動機故に必要な空気取り入れ口、潤滑油冷却器関係の配置は絶妙で、結果風洞試験での抵抗値は表面摩擦のみというごく小さな抵抗値にまで押さえることが出来た。

1940年(昭和15年)11月、完成した試作1号機は陸攻用の木更津基地に移され(追浜飛行場では狭く危険な為)、11月15日に初飛行に成功した。この初飛行の後席には開発主務技師である山名技師が自ら乗り込んだという。初飛行ではまずまずの評価を得た十三試艦爆であったが、以後の試験飛行は難航した。主な原因は発動機の不調であり、気化器の能力不足・調整困難からくる水温の上昇が原因だったという。
冷却器の改造が行われ高温高圧水冷却法を採用・改造した冷却器は国産版発動機・愛知製十三試ホ号(AE1A・後の熱田二一型)にも採用された。(試作機に取り付けられた発動機は輸入版のDB600G)

そして試験飛行は十三試ホ号発動機に代えられ、以後の試験飛行を順調にクリアーしていく。
飛行実験部によって試験飛行された際に記録した性能数値は以下のようなものであっという。
  
十三試艦爆(試作機)  性能値
航続距離 爆装正規状態 1,570km(:250kg爆弾×1発)
爆撃過荷重状態 2,590km(上記状態+機内燃料満載)
偵察過荷重状態 3,890km(落下式増槽装備)
速度性能 巡航速度 426km/h
最大速度 552km/h(高度4,750m)

この偵察過荷重状態とは主翼両翼下の増槽に加えて爆弾倉内にも増槽を積んだ状態での記録だと思われるが、1941年(昭和16年)当時における単発機としては抜群の性能であった。
また高速性能も当初の計画性能値を上回り、結果偵察機としても使用できる機体と判断された。その為本機はまず艦上偵察機として採用されることが決定した。既に太平洋戦争は開戦しており、当時母艦航空隊は偵察任務に鈍足の九七式艦攻を使用していた為、高速の艦上偵察機はぜひとも配備を急ぎたい機種であった。
十三試艦爆試作3号機、4号機は艦偵仕様に改造され、胴体内爆弾倉には増槽を装備した状態で空母『蒼龍』に配備されたのである。
艦偵型は1942年(昭和17年)7月、まず二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)として制式採用された。

だが、十三試艦爆の本来の任務である艦爆型としての採用に立ちはだかる2つの事件・事故が起こる。
先に空母『蒼龍』に配備された試作3・4号機はミッドウェー海戦に参加した結果2機とも同作戦における『蒼龍』沈没という事態により失われてしまった。
次に試作5号機が試験飛行中に高速での緩降下中に空中分解してしまった。この事故の原因が確定できなかった為、制式採用が遅延してしまった。

上記のような試作機消失が続いた為、通常であれば至急増加試作機を製作し試験飛行を継続する必要があったが、十三試艦爆には他の問題があった。
既に量産化のために製造を引き受けた愛知(愛知時計電機社、後に愛知航空機に社名変更)での生産開始準備が進んでいた為である。民間会社による設計・製造という通常の方法ではなく、空技廠設計・愛知での生産という点が問題となったのである。
当初の予定では1941年(昭和16年)11月の段階で愛知に対し生産を打診され、翌1942年(昭和17年)度中に100機の生産であったが、実際には空技廠から愛知に対しての図面出図が遅れた。しかも試作機の仕様変更に伴ない順次図面が修正され中々揃わず、その上生産及び機体構造上の問題点が発生するたびに変更されていく。結果量産化は遅れに遅れた。
1943年(昭和18年)3月までに生産出来た機数は25機(海軍の領収機数は10数機)だけであった。(量産機の初飛行は1942年10月5日)その間に発生した構造・装備・生産性向上の為の変更は実に254項目に及んだという。



二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)
まず艦上偵察機として制式採用が決定した本機は初期生産分の内、少数は空技廠にテスト用として回され、それ以外は二式艦偵として配備された。
装備品である航空写真機は固定式小西六(現コニカ)製K-8型を胴体後部に設置された。
武装は機首の九七式7.7o固定機銃×2挺と後部席用の九二式7.7o旋回機銃×1挺。



艦上爆撃機 彗星一一型(D4Y1)
1943年(昭和18年)5月、月産量産数が2桁に達し、7月には月産30機に達した。この頃から艦爆型の生産が始まるが艦爆型の生産数ははっきりしていない。
愛知での資料によると6月から艦爆型が制式採用となったが、海軍側の資料によると同年12月からとなっている。
しかし、昭和18年の段階では既に高速機としてのイメージは薄らいでしまったと言える。

武装は二式艦偵と同様に機首の九七式7.7o固定機銃×2挺と後部席用の九二式7.7o旋回機銃×1挺。他に主兵装となる爆弾を胴体爆弾倉内に50番(500kg)×1発もしくは25番(250kg)×1発か3番(30kg)×2発を搭載できる。ただし、50番を搭載した場合、胴体爆弾倉の蓋を閉じることは出来ない。
当初、射爆照準器は風防内に納まる九八式二型光学式照準器であり、二式艦偵一一型と同じであった。だが光学式では急降下時の降下照準角が狭い為、途中から眼鏡式の二式一号射爆照準器一型に変更した。



二式艦偵一一型、彗星一一型合わせての生産数は705機。



   
艦上爆撃機 彗星一二型(D4Y2)・彗星一二甲型(D4Y2a)
彗星一一型に搭載している液冷発動機『熱田』二一型の換装が行われた。
元となるダイムラーベンツDB601の陸軍版を生産している川崎『ハ40』の出力向上型『ハ140』同様、愛知の『熱田』も30型として圧縮比・ブースト圧を高め、減速比を変えて回転数を上げた熱田三二型を開発し、搭載することを決定した。
これが彗星一二型(D4Y2)である。
熱田三二型を搭載した結果、重量は60kg増で出力は200〜300HPアップしたが、発動機に水エタノール噴射装置が付けられた為、それ用のタンクが新設された。代わりに滑油タンクが小さくなったが、基本的には磁気発電機用の大型化に伴なう機首上面の小さな膨らみが増えた程度しか外観上には変化は無かった。
この換装計画は1944年(昭和19年)1月より開始され、一一型からの切り替えは5月に完全に切り替わった。

外観上の一番の違いは後部尾輪であり、完全引込式だった尾輪は固定式に変更された。これは工数減少による生産性向上のための措置だったと思われるが、一二型の当初から固定式に変わっていたか否かは不明。

武装の変更は後部座席の旋回機銃が一式7.9o旋回機銃(ラインメタルMG15の国産版)に変更されたが、その他は同じである。
さらに旋回機銃を二式13o旋回機銃一型に変更したものを彗星一二甲型(D4Y2a)と称する。



二式艦上偵察機一二型(D4Y2-R)・一二甲型(D4Y2a-R)
彗星の一二型への変更に伴ない二式艦偵も発動機を熱田三二型に変更した二式艦偵一二型が誕生した。
本機は機体記号が一一型の『-C』から『-R』に変更となった。これは『-C』が艦上偵察機を表す記号だったのに対し、『-R』は陸上偵察機を表す。空母での運用より陸上基地での運用が多かった為の措置と思われる。

発動機換装による性能差は一一型に比べ33km/h増の580km/hを記録したが、実戦では若干低下したと思われる。(艦爆型:彗星一二型も同様)
だが1944年(昭和19年)の時点においては劣速であり、常に未帰還の覚悟が必要であった。

彗星一二甲型同様、旋回機銃を二式13o旋回機銃一型に変更したものを二式艦偵一二甲型(D4Y2a-R)と称する。



熱田三二型を搭載した彗星一二型・二式艦偵一二型の生産機数は合計で281機。



彗星夜戦一二戊型(D4Y2-S)
彗星一二型からの派生型として生産されたタイプに夜戦型が存在する。
本機は彗星の頑丈な機体構造と機動性、複座として偵察員が同乗するため夜間飛行が可能である為、初代夜間戦闘機『月光』に変わる新夜戦として改造・生産された。

1944年(昭和19年)春、彗星一二型を横須賀航空隊と第一航空廠(霞ヶ浦)の協力で後部風防内に30o機銃1挺を付加した夜間戦闘機に改造した。だが30o機銃は小型の彗星には大きく、射撃時の反動で強く、また発射速度が遅い為、九九式20o二号固定機銃四型に変更された。
彗星一二型への20o機銃搭載は第十一航空廠(広島)で行われた。彗星夜戦は全機一二型からの改造であり、最終的には100機程度が改造された。
また風防も視界確保の為に夜間戦闘機用に交換し、射爆照準器も光学式に変更した。

彗星夜戦は302空を初めとする本土の局地防空戦闘機部隊に配備されだが、一部では外戦部隊の131空『芙蓉部隊』でも運用された。
だが芙蓉部隊では本来の彗星夜戦の主目標である敵爆撃機邀撃ではなく、沖縄に上陸した米軍に対する夜間銃爆撃戦法及び米機動部隊攻撃を行った。その為一部の機体では彗星夜戦に改造する手間を惜しんで彗星艦爆及び二式艦偵のまま使用した機体もあったという。

武装は二式艦偵・彗星艦爆と同様に機首の九七式7.7o固定機銃×2挺と、夜戦用装備である斜め銃として九九式20o二号固定機銃四型×1挺を装備する。局地防空部隊では搭載することはないが艦爆型同様に胴体爆弾倉内に50番(500kg)×1発もしくは25番(250kg)×1発か3番(30kg)×2発を搭載できる。ただし、50番を搭載した場合、胴体爆弾倉の蓋を閉じることは出来ない。
さらに芙蓉部隊所属機は仮称三式一番二八号爆弾(28号ロケット爆弾)、三一号光電管爆弾、三号対空爆弾、タ弾(対飛行場用破砕爆弾)、二五番時限爆弾、三式二五番八号爆弾(反跳爆撃用)といった特殊爆弾、試作兵器を運用して(もしくは運用できるように改造を施して)いた。そして銃爆撃攻撃には不要だった斜め銃は撤去していたケースも多い。但し後に敵夜戦が警戒に飛ぶようになると敵夜戦撃墜の為に再び斜め銃を装備するようになった。



その他の派生型
高々度型  防空部隊に配備が決定した彗星夜戦一二戊型だが、B-29の来襲時に護衛戦闘機が随伴しない場合は出撃できるように高々度邀撃戦仕様の開発が行われた。
彗星一二戊型から1〜2機に排気タービンを付加する改造が行われた。
機首両側にダクトが設けられ、排気タービンは爆弾倉内に設置。タービン用空気吸入口は翼根付近に設けられた。だが実験中に敗戦を迎え、実用にはならなかった。
   
航空戦艦用
射出型
(D4Y1改)
(D4Y2改)
ミッドウェー海戦で失った正規空母の代わりとして戦艦『伊勢』『日向』の2隻を航空戦艦に改造する計画が進行していた。この2隻の搭載艦載機として選ばれたのが彗星艦爆であった。当初の予定では彗星を各22機づつを搭載する予定だったが、両艦に搭載される機体は射出カタパルト(一式二号射出機一一型)からの出撃が前提となる。
彗星一二型に射出機に耐えられるように補強と改造を加えた機種を彗星二二型(D4Y2改)と称し、1944年(昭和19年)10月に制式採用された。
同様に一一型を改造した二一型(D4Y1改)、一二甲型を改造した二二甲型(D4Y2a改)が存在するが実戦には使用されずに終わった。



液冷型の問題と空冷型への移行
彗星の発動機を空冷型への変更が計画された。これは陸軍が同様の発動機『三式戦・飛燕』の発動機を液冷型から空冷型へ変更した場合と同様であったが、若干違う理由も存在した。

愛知側の記録によると機体の生産数が捗ったのに対し、発動機の生産が遅れ、不足がちであったこと。また性能向上型である熱田三二型の故障が続発し、生産数が落ちた為、空冷発動機搭載を検討したとのことであった。
では熱田三二型の問題点とは何か。
愛知における熱田の生産は二一型から三二型に転換した際にガタ落ちしたという。また実戦部隊からの液冷発動機に関する整備上の問題が上げられた。
元来空冷を主体に開発・運用が進められてきた日本陸海軍航空隊は液冷発動機を運用する基礎技術が低かった。開発・ライセンス生産は出来たが、それを前線で運用する整備隊が液冷発動機に慣れておらず、機体の稼働率は低下したのである。
だが1944年(昭和19年)当時においては、本来稼働率が高かった零戦部隊(空冷『栄』発動機装備)でさえ稼働率は低下していた程全体の整備力は落ち込んでいる時期であった。
外戦部隊として戦地を移動する部隊とは違い、本土で固定配置されていた防空部隊の整備隊でさえ液冷発動機『熱田』の取り扱いは難しかった。その為、整備上問題が少なそうな空冷発動機への換装は自然であった言える。
だが例外はある。各部隊から稼働率低下、整備上の問題から不評だった液冷発動機を装備した彗星一二型(艦爆型)をかき集め、部隊の主力器材として沖縄航空戦を戦い抜いた芙蓉部隊である。整備員たちの努力による高い整備力と、メーカーからの技術指導によって高い稼働率を確保していた。
具体例として1945年(昭和20年)1〜6月頃の彗星を配備する各部隊の稼働率を纏めて見る。
航空隊 稼動機数/装備機数 稼働率 備考
131空 芙蓉部隊
(岩川基地進出部隊)
22機 / 26機 85% 5月20日
沖縄航空戦末期
302空 9機 / 22機 41% 1〜5月の各月初日の平均
352空 2機 / 7機 29% 5月中旬・下旬の平均
210空 18機 / 48機 38% 1〜3月の各月月末の平均
艦爆型・艦偵型を含む
確かに熱田三二型を装備する彗星配備の各隊の稼働率は全般的に低い稼働率であった。もっとも先に述べたように高い稼働率を誇っていた零戦の『栄』でさえ、部隊によっては稼働率60%台だった部隊もあった当時ではあるが、例外的に高い稼働率を誇っていた部隊も存在していた。

実際に彗星・二式艦偵に乗って戦った同乗員も彗星を悪く言う者は意外と少ない。
だが稼働率は全体的には低下しており、また生産数がガタ落ちしていた液冷型彗星を空冷化しようとすのは自然と生まれる動きである。そのための発動機として三菱製発動機『金星』が選ばれた。この空冷発動機型を彗星三三型と称する。
だが皮肉なことに彗星三三型の試作が完了し、完成機が出現する頃になってようやく熱田三二型の月産生産数が増加するのだった。
彗星は液冷型(一二型)と空冷型(三三型)が同じ工場(愛知航空機・永徳工場)で平行して量産されていくこととなる。



陸上爆撃機 彗星三三型(D4Y3)・彗星三三甲型(D4Y3a)
空冷発動機を搭載することとなった彗星だが、選定された発動機は上記のように三菱製空冷発動機である『金星』であり、その最終シリーズである60型である。この発動機は日本製発動機の代表ともいえるシリーズであり、高い信頼性を得ていた。
金星六一型は気化器を使用したタイプであり、六二型は吸入管への水・エタノール噴射装置付である。
空冷彗星の試作機には金星六二型を搭載され量産化されたが、一部の機体には金星六一型を搭載した機もあるらしい。
金星六二型は14気筒二重星型で(離昇)出力1,560hpであり、熱田三二型とほぼ同じである。カウルの再設計を行い、発動機の大きさの違いから出来る段差は空気吸入口を巧みに設置し解消した。だがプロペラ軸位置の変更の為、プロペラ直径は一二型よりも直径で20p短いタイプが取り付けられた。
武装は一二型と同様であったが、両翼下にも二五番(250kg)爆弾を搭載出来る様になった。(但し、両翼下に爆装した場合、胴体内爆弾倉は二五番(250kg)爆弾×1発のみ)
射爆照準器も一二型同様の眼鏡式を採用したが、最終生産分43機は光像式三式一号射爆照準器一型に変更された。
また後に一二型同様後部座席の旋回機銃を二式13o旋回機銃一型に変更しており、これを三三甲型(D4Y3a)と称する。

本機は一二型からの空冷発動機への換装型であるため、当然艦上爆撃機である。だが、当時既に艦載機として運用する機会が減り、陸上基地からの出撃が殆どであった為、試作1号機以外には着艦フックを装備しておらず、事実上陸上爆撃機であった。

試作機は1944年(昭和19年)5月に完成。同年中に彗星三三型として制式採用された。
また一二戊型同様斜め銃として20o機銃を搭載した夜戦型も試作されたが、採用されたか否かは不明。(恐らく試作のみ)



三三型・三三甲型の生産数は536機。



陸上爆撃機 彗星四三型(D4Y4)
1944年(昭和19年)11月、海軍が特攻攻撃を組織的に使用し始めると、彗星も特攻用に大改造を施す計画が誕生した。四三型である。
これは特攻にあたり後部座席を潰して単座化し、偵察員を乗せないようにした。さらに搭載爆弾を八十番(800kg)爆弾とした。実際艦爆が八十番を搭載して急降下することは不可能であり、爆撃(特攻)方法は緩降下爆撃方法である。
そして大きすぎる爆弾故に胴体部を切り裂き、また爆弾倉の蓋は撤去・廃止された。当然爆弾投下用の誘導管(通常爆弾をプロペラ圏外に送り出す為の折りたたみ式アームが有った)も撤去された。
射爆装置は搭載しない予定だったが、後に光学式三式一号射爆照準器一型が採用され装着されている。

固定武装はなし。単座化により後部座席の旋回機銃はもとより機首の7.7o機銃も廃止される。代わりに操縦席前後の防弾装甲が風防前面の防弾ガラスとなり、さらに防弾(耐弾)燃料タンクが採用された。

最大の特徴は胴体下部の両側に各1本(離陸用)、本来の後部座席下に3本(加速用)、計5本の増速用ロケットが装着された。ただし後に離陸用として設けられた両側の2本は廃止され、さらに加速用も3本から2本に減らされた。(主に重量軽減のため)
他にも帰投方位測定機や無線電信機が廃止されている。(近距離用無線電話は残された)

本機は1945年(昭和20年)2月12日に試作1号機が完成し、そのまま制式採用となった。そして三三型の生産をやめて四三型の生産1本に絞るようになると、終戦までに253機が完成した。だが本機は一度も実用はされなかった。
胴体爆弾倉の蓋撤去による空気抵抗の増大、八十番爆弾搭載による重量増加によって最大速度が低下し、ロケット装置は飛行特性を酷く悪化させた為である。
一部の機体は後部座席を復活させ、通常作戦用に戻したものもあるったという。