帝國海軍の戦艦(5) |
大和級 |
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今更説明の必要も無いであろう、史上最大の戦艦である。 昭和12年度計画であるB計画で建造が決定した世界でも唯一の18インチ(46p)砲を塔載する戦艦である。このB計画で2隻、翌年のC計画で2隻の計4隻が計画された。大和級は当時仮想敵国である米国に主力艦(戦艦)の保有数での不利を補うべく個艦優勢主義のもと建造された。当時の米国海軍では戦艦建造に辺り最大のネックとなったのがパナマ運河の存在であった。太平洋・大西洋の両方に艦隊を保有しなければならない米国にとって、パナマ運河を通行できるようにすることは絶対条件であった。そしてそれゆえに艦体の最大幅が制限されるのである。これは現状での最大幅では主砲に16インチ砲の採用までが限界ということを示す。その為日本海軍ではそれを上回る18インチ(46p)砲の塔載を決定した。この主砲口径は当時最大の極秘事項とされ、戦艦設計図にさえも、16インチ砲と記されていた。また存在そのものを極秘としたため、戦後まで国民には大和級のことは公にはされなかった。 1941年(昭和16年)12月16日、1番艦大和竣工。 時は既に太平洋戦争に突入していた。空母による新しい戦い方を世界に示した日本海軍が、開戦後に最大の戦艦を竣工させたのは皮肉以外のなにものでもなかった。 1942年(昭和17年)2月12日、連合艦隊に編入。と同時に連合艦隊旗艦として山本五十六連合艦隊司令長官の座乗艦となった。 しかし戦局にはなんら寄与することなく時は進む。ミッドウェー海戦に参加するも、遥か後方であって実戦参加はなかった。 この戦いで主力空母を一挙に4隻も失った日本は空母の大量生産に乗り出す。そして優先順位の下がった戦艦は建造が中断された。これにより大和級の2番艦以降のうち、竣工間近な武蔵はそのまま建造されたが、3番艦は空母に改造、4番艦は建造中止となった。この3番艦が日本海軍最大の空母 信濃 である。 この直後1942年(昭和17年)8月5日、2番艦武蔵が竣工した。 8月からソロモン方面の戦いが開始されると即座に前線に近いトラック諸島に移動するが、狭い海域での戦闘には投入出来ないし、トラックに止まりつづけた。これが大和をして『大和ホテル』と言われた原因である。連合艦隊司令部の後方司令部基地としてのみ運用されたのだ。 1943年(昭和18年)2月11日、武蔵がトラック諸島に到着すると連合艦隊旗艦に変更された。武蔵の方が通信機器が充実しているためである。しかし・・・やはり戦局になんら寄与することはなかった。 1944年(昭和19年)6月、マリアナ海戦に参加。今次戦争の天王山とも言うべき戦いであったが、主役は空母と艦載機であり、大和も空母の護衛・前衛部隊として出撃したが、敵艦隊と交戦することはなかった。続く10月、レイテ作戦に参加する。 これは今や無用の長物となった戦艦をなんとか活用しようとした戦いであり、フィリピン諸島・レイテ湾に上陸した米軍と輸送艦隊に対し戦艦以下の水上艦隊を突入させて撃滅しようというものであった。途中米軍機の波状攻撃を受け、味方航空機の援護の無い状態での進撃であったため浮沈戦艦と言われた本級もついに海に沈んだ。2番艦武蔵である。このときの武蔵の被害は魚雷20本・爆弾18発、その他多数の至近弾であったという。 レイテの戦いを生き延びた大和は呉に帰ってきた。しかし燃料も無く最早行動することさえ出来ない状態であった。1945年(昭和20年)4月、米軍の沖縄上陸に合わせて天1号作戦が発動、大和以下の最後の水上艦艇が沖縄目指して進撃を開始した。片道分の燃料を塔載した水上特攻作戦である。 4月7日、沖縄目指した大和は他の9隻の水上艦艇と共に米空母艦載機の波状攻撃を受け、徳之島沖についに沈没した。 |
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(各艦の戦歴)
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