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5月9日 | 米潜水艦『スティールヘッド』による幌別砲撃 竣工後最初の任務として日本近海に向かった米潜水艦『スティールヘッド』は室蘭の日本製鐵輪西製鐵所に対して艦砲射撃を実施した。但し、砲撃地点がずれ、着弾地点は室蘭北東部幌別村であった。 その後12日に襟裳岬沖に機雷を敷設して任務を終了、ミッドウェー島に帰投した。 |
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6月24日 | インパール作戦兵棋演習 第十五軍司令官牟田口中将の発案により計画されたインパール作戦に関し、南方軍がビルマ方面軍対しインパール作戦の可否について兵棋演習を行うよう要請してきた。 6月24日より4日間に渡って行われた兵棋演習であったが、出席した稲田南方軍参謀副長、中方面軍参謀長、共に第十五軍(牟田口中将)の作戦構想は危険性が多く、特に補給を軽視して作戦としては成り立たないと講評した。 作戦の再検討を迫ったが、牟田口の考えを変えることは出来なかった。 この演習後、牟田口は大本営参謀竹田宮殿下に直訴しインパール作戦の必要性を熱心に説明し、認可いただくよう協力を願い出る。竹田宮も補給の寒天から大規模侵攻作戦は成立しないと答えたが、尚も執拗に認可を要請したという。 参加した各参謀が一様に反対する中、ビルマ方面軍司令官河辺正三大将の牟田口の積極性を買い、意見を尊重してやれという人情的で熟慮を欠いたともいうべき心情的態度が、後のインパール作戦の誘因なったと言われている。 |
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7月11日 | 幌筵島空襲
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7月19日 | 幌筵島空襲
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7月20日 | 飛行第五四戦隊、北千島に進出 アッツ島玉砕後、同島に進出してきた米陸軍航空部隊(第11航空軍)によって緊張感の高まった北方方面。特に最前線となった北千島列島ではあったが、同地防空を担当する陸軍部隊には防空戦力が配備されていなかった。 本来配備されている筈の航空戦力は第一飛行師団であり、隷下の飛行第五四戦隊と飛行第六三戦隊(1943年(昭和17年)7月現在)であった。 だが飛行第六三戦隊の装備機は未だ旧式の九七戦であり、一式戦への機種改編作業中であった為、戦力にはなりえなかった。 もう一つの飛行第五四戦隊は一式戦を装備し、防空戦力の一端として期待されていたが、中部軍隷下の飛行第十三戦隊が南東方面ラバウルに進出する際に、その穴埋めとして第二・第三中隊が大阪防空任務の為に派遣されていた。 また第一中隊もまた、防空戦闘機隊が居ない台湾に派遣されていた。 北方方面が慌しくなって来た6月以降、急遽大阪派遣の第二・第三中隊を引き上げ、帯広に集結させた。 最初の幌筵空襲時には帯広に展開していた為、戦力とならず、実際に幌筵島北ノ台飛行場に進出(全23機)したのは2回目の空襲後である7月20日のことであった。 |
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8月12日 | 幌筵島空襲
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9月12日 | 幌筵島空襲
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11月25日 | 台湾・新竹空襲
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12月22日 | インパール作戦兵棋演習 12月22日〜26日に第十五軍がメイミョーの軍司令部で開催した兵棋演習。 これはインパール作戦を決定するか否かを決定する最後の兵棋演習であり、この結果をもって南方軍が作戦の決定を行うことになっていた。 ビルマ方面軍より中参謀長、不破作戦主任参謀、上村後方主任参謀が参加。 南方軍より綾部参謀副長、山田作戦主任参謀、今岡後方主任参謀が参加。 演習は第十五軍がこれまでに主張してきた作戦構想によって行われ、インド進攻の含みを持たせた作戦であり、作戦地域を北方の山地方面とし、補給の続かない地域を作戦地としていた。 作戦期間は3週間を想定。その間の食料は各人が携行し、機関銃、歩兵砲、火砲などの重量物は後方に残して約半数のみを携行する。また弾薬も携行分のみとし、作戦期間中は補給しないというものであった。 携行する火砲も旧式の山砲(三一式山砲)を装備する部隊もあり、装備面では日露戦争当時の装備かと思わせるような前近代的なものであった。 進撃路はビルマ北方(北西方面)のアラカン山系を重装備(約60kg)を背負っての徒歩進撃であり、無謀な計画であった。 また補給無しの作戦は沢山の駄馬、駄牛、象を携行し、食用に供しえる野草や代用食で食料を賄うというものであり、これはジンギスカンの時代に逆戻りさせたかのような方法であった。 日本アルプスの3倍とも言われるアラカン山系に駄牛、象を携行させ、さらには食糧としても供するという方法は兵棋演習に参列した多くを唖然とさせ、とても作戦として成り立たないだろうと思わせるものであった。 当時作戦の主体となる第十五軍では軍司令官牟田口中将の専横ともいうべき状態となっており、参謀長以下首脳部は誰も牟田口に反論出来る状態ではなかったという。事実作戦構想初期の段階で反論した第十五軍参謀長小畑信良少将を就任僅か1ヶ月で追放してしまっている。以後牟田口に反論する参謀は居なくなったという。(小畑少将は陸軍における兵站の権威者であった。) 兵棋演習に参加した参加者は牟田口を師団長としては優秀だが、軍司令官としては失格。後方(兵站)というものを理解していない。と評したという。 南方軍の山田作戦主任参謀が参加した各人の意見を纏めたところ、ほぼ全ての者が作戦に反対する、もしくは言外に反対の意思を示す中、綾部参謀副長のみはかねてよりインパール作戦を出来るならやらせてやりたいと考えており、作戦の認可に傾いていたという。 これを察した山田作戦主任参謀は前言を撤回し作戦決行に同意。南方軍総司令官寺内元帥に報告することとなる。 |
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