帝國海軍の戦艦(3) |
伊勢級 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
扶桑級の3・4番艦として計画された戦艦である。 当時よ着工が遅れたため、設計変更を行うことが出来た。扶桑級との最大の相違点は主砲配置にあり、3・4番砲塔を背負式に塔載している。これにより射撃管制が有用になった。また煙突の配置が変更になり、結果的に主砲の砲撃時の衝撃波を受けないスペースが確保することが出来た。また副砲も変更された。扶桑級で採用された15.2p砲は日本人が運用するには重すぎたのだ。その為14p砲に変更したのだが、これにより連続射撃がやや容易に出来るようになった。 昭和9年から行われた改装では主に防御力が強化され、水平防御と弾薬庫防御の強化が図られた。また主砲の仰角増大も図られている。 開戦時には主力艦隊の一部として本土に待機していたが、出番はなかった。1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦により本級の運命が変わる。主力空母を一挙に4隻も失った海軍は空母の大増産計画を始める。その一環として使用していない戦艦の空母への改造計画が出てきた。改造には色々と案があり、完全に空母にする案、半分(艦体後部)だけ空母に改造する案などである。結果的には艦体後方の5・6番砲塔を撤去して飛行格納庫を増設。航空機をカタパルトで射出し運用する計画に定まった。 当初本級のほかに扶桑級を改造する案であったが、扶桑級の速度が本級よりもさらに遅いこと、なにより昭和17年5月に訓練中の日向で第5砲塔が爆発するという事件があった。これによりドック入りしていた本級が改造されることが決定した。 改造工事は翌年の昭和18年8月に完成したが、当初塔載する予定だった航空機・瑞雲の生産が間に合わなかった。この為塔載すべき航空機を持たない航空戦艦はその広い飛行機格納庫を利用して輸送任務に使用された。 本級唯一の作戦参加となったのが、1944年(昭和19年)10月に行われた捷1号作戦である。この作戦で本級はそろって空母機動部隊である小沢艦隊に配属された。囮任務として・・・この当時、本級に塔載する航空機どころか、空母に載せる航空機さえない有様であり、機動部隊自体、なんの戦力になりえなかった。その為、他の戦艦部隊がレイテ湾目指して突撃している間、空母と共に敵機動部隊を引き付ける囮任務についたのだ。この作戦で作戦参加した総ての空母を失ったが、敵の度重なる空襲にも本級はともに生き延びた。 この作戦後、1945年(昭和20年)2月に実施された北号作戦に代表されるような南方から本土に向けて物資を強行輸送する作戦に従事することとなる。最後には本土で繋留され浮砲台として防空任務に従事、敵機の攻撃により大破着底した状態で終戦を迎えた。 |
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(各艦の戦歴)
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