局地戦闘機『雷電』





三菱 局地戦闘機 『雷電』 二一型 (模型展示コーナー
開発までの経緯
局地戦闘機『雷電』
この拠点(海軍鎮守府・軍港)を敵機から守るべく開発された邀撃(迎撃)を専門とした戦闘機は、例えば欧米の空軍・陸軍航空隊が装備する航空機としては極普通の発想で開発・配備された航空機であろう。なにより欧州の航空事情においては、多分に邀撃機としての要素をもっているからである。だが、その機体を海軍という組織が開発・装備したのは日本海軍という特異性の為であろう。

本機『雷電』が開発された経緯は日華事変による戦訓の為である。
1937年(昭和12年)7月、蘆溝橋から始まった日華事変は次第に拡大し、陸海軍を大陸の奥深くに引きずり込むようになる。海軍は陸軍との作戦協定により華中・華南方面を担当して航空作戦を継続する。
対する中国航空部隊はソ連から供給を受けた爆撃機により上海、南京といった要地に対し爆撃を継続。当時海軍が装備していた艦戦部隊、九五艦戦、九六艦戦ては敵機の捕捉が難しく、度々爆撃を受けるようになっていた。その為、海軍でも艦戦のみならず、基地防衛用に特化した防空用陸上専用戦闘機の開発を進めることが決定したのである。
この局地戦闘機に対する性能要望は1938年(昭和13年)秋、現地航空部隊である第十二航空隊と、試作機の実用実験を担当する横須賀航空隊から相次いで提出された。
十二空からの要望は航続性能、操縦性を犠牲にしてでも速度を重視すべきとされ、武装に関しては7.7oを威力不足であるとしつつも20o大口径機銃は不要とし、10〜13oを限度とするとされたいた。
横空からの要望も十二空からの同様であり、速度と上昇力を重視し、十二空案を具体的にしたものであった。
1939年(昭和14年)2月、軍令部で決定された局戦の性能標準は上記要望書に沿ったものであったが、ただ武装の点においてのみ変更があり、20o機銃の採用が検討されるようになる。
(武装案は3案あり、その内の第1案は20o及び7.7o機銃各2挺、第2案は13o及び7.7o機銃各2挺(横空案)、第3案が7.7o機銃4挺であった。)

この新たに開発が決定した局地戦闘機を海軍は十四試局地戦闘機と名づけ、その設計を三菱に担当させることとした。
海軍航空本部技術部 巌谷英一少佐に招かれた三菱の堀越二郎氏は提示された十四試局戦の計画要求書に対し、自身の邀撃戦闘機に関する考えを述べたという。だが十四試局戦に関する計画要求書は三菱に届かず、正式な計画要求書が届いたのは実に7ヶ月も経った1940年(昭和15年)4月になってからであった。これは海軍にとって初の局地戦闘機である本機に対し要求仕様を纏めるのに時間が掛かった為であると思われる。
また十四試局戦は他社との競合試作ではなく、三菱1社に対してのみの単独指名であった。これは九六艦戦零式艦戦と立て続けに傑作機を開発した三菱(そして堀越氏)の技量を買った為であろう。また当時中島飛行機では同様の重戦闘機 鐘馗を開発中であり、陸軍御用達メーカーとなっていた感がある為、敬遠されたのではないだろうか。
だが指名された三菱も開発中の十二試艦戦(零式艦戦)の空中分解事故(試作2号機)というアクシデントと、中国大陸に早急に十二試艦戦を送り込む為の準備で慌しく、堀越氏を始め休む暇もなく作業に忙殺されていた。

海軍が示した十四試局戦の性能要求は以下のようなものであった。

目的 敵攻撃機を阻止撃破するに適した局地戦闘機
形式 単発単葉型
主要寸法 特に制限無し。なるべく小型。
発動機 昭和15年9月末日までに審査合格の空冷発動機
プロペラ 恒速(定回転)プロペラ
搭乗員 1名
性能 最高速度 高度6,000mで325ノット(602km/h)以上
340ノット(630km/h)を目標とする。
上昇力 6,000mまで5分30秒以内
実用上昇限度11,000m以上
航続力 正規状態:6,000m、最高速にて0.7時間以上
過荷重状態:6,000m、発動機公称馬力の40%で4.5時間以上
離昇(離陸) 過荷重状態:無風にて300m以下
降着 降着速度70ノット(130km/h)以下
降着滑走距離600m以下(なるべく小なること)
空戦性能 旋回ならびに切り替えし容易にて、一般特殊飛行可能なること
兵装 20o機銃(弾数:各60発)×2挺
7.7o機銃(弾数:各550発)×2挺
爆弾:30kg爆弾×2発
艤装 無線電話機 九六式空一号無線電話機
防弾 搭乗員後方に8o防弾鋼板
その他 酸素装置、計器類は十二試艦戦に準ずる

これらがどれだけ高い要求であったか・・・それは最高速度と上昇力に対する項目が非常に高い要求値となっている点でも明らかである。当時の主力戦闘機であった九六式四号艦戦の最高速度が435km/h、最新鋭でありまだ部隊配備の始まっていない零戦であっても510km/hである。それを更に100km/hも上回る要求値であった。
上昇力は零戦一一型が6,000mまで7分27秒、後の五二型(大戦後半の主力)でさえ7分1秒である。
これだけ見ても十四試局戦に課せられた性能要求値が如何に高いものであったかは分かるであろう。
だが・・・・・・この要求値を満たすことが出来たのは十四試局戦の最終生産型である雷電三三型のみであった。
十四試局戦に求められたのは速度と上昇力である。
設計にあたり、つけられた優先順位は 1.速度  2.上昇力  3.運動性 であった。反面航続性能はもっとも順位が低く、十二試艦戦(零戦)の半分でしかなかった。

三菱・名古屋航空機製作所において結成された十四試局戦・設計チームは基本的に十二試艦戦の設計チームの同様のメンバーであった。(若干の入れ替わりはあるが)
そしてこのチームが零戦と雷電という、まったく性格の違う機体を設計していくこととなった。
十四試局戦を設計するにあたり、最大の問題となったのが発動機である。速度と上昇力を得る為にもっとも必要なモノが大馬力の発動機である。だが当時の日本には十四試局戦に適した大馬力発動機がなかったのである。
1940年(昭和15年)9月に審査終了の大馬力発動機として選定されたのは2台。三菱:十三試へ号改(空冷。後の火星)と、愛知:十三試ホ号(液冷。後の熱田)である。
当初、内示の段階であった1940年(昭和15年)2月の段階で堀越氏が選んだのは愛知の十三試ホ号であった。だが正式な要求仕様で指定されたのは空冷発動機であり、空冷偏重できた日本にとっては確実性で液冷発動機は信頼がなかった。結果十四試局戦は十三試ヘ号改が選ばれたが、たとえ十三試ホ号に決定していたとしても彗星艦爆や陸軍の三式戦飛燕と同様の道を辿っていたことであろう。結局大馬力発動機を生産できなかった日本の基礎工業力の問題であり、そして十四試局戦の不運であった。
選ばれた十三試ヘ号改は離昇出力1,430馬力という当時最強の発動機である。これは九六陸攻や九九艦爆に搭載された金星発動機の気筒径・気筒行程を大きくし二速過給器を取り付けた発動機である。そして九六陸攻・九九艦爆といった機種に搭載されている点からも分かるように大型で、直径の大きい発動機であった。その大きさ故に戦闘機には向かない発動機がこの火星シリーズである。



十四試局地戦闘機(J2M1)
J2M1と名づけられた十四試局戦の設計は、如何に十三試ヘ号改によって発生する空気抵抗を抑えるかから始まった。
前作十二試艦戦(零戦)に搭載した『栄』(空冷発動機)に比べ、直径が約20pも大きいのである。当然大きくなった発動機は従来のままであればカウリング部分の空気抵抗が増大し、結果速度低下を招くこととなる。如何に空気抵抗を減らすかが設計の課題となった。
空気抵抗を減少させる為にとった手段が発動機取付位置を機体中央部に移すことであった。これによりプロペラ軸を延長。この間のカウリングを絞ることによって紡錘形の機体となる。空冷発動機である為、冷却用の空気取り入れはプロペラ軸に強制冷却ファンを設置し、後方の発動機まで誘導することとなった。
また前方から40%の位置に置かれた発動機を中心に後方も絞り込むような形状となり、空気抵抗の現象を狙って操縦席周りの風防も水滴型ではなく後方を胴体ラインと一体となったファストバック方式を採用した。
この結果得られた十四試局戦のデザインは日本機離れしていると言われた独特の形状となったのである。

さらに設計上の特徴の一つとして十四試局戦では脚部とフラップの操作に電気駆動が採用された。日本機は基本的にほぼ油圧式駆動を基本としており、電気駆動を採用した機体は少ない。電気駆動を採用することによって構造設計面及び重量面においてだいぶ有利になるのだが、動力源となる小型電気モーターが無く、新たに作り出すこととなった。

基本構想が纏まった後、実際に実物大模型を制作し、海軍側の審査を受ける第一次木型審査が1940年(昭和15年)12月26日に行われた。
海軍側の主要スタッフは空技廠飛行実験部のの小福田租大尉、横空の下川万兵衛大尉の両テストパイロットである。
この木型審査に臨んだ両者がまず驚いたのが機体の大きさである。
胴体部の最大幅が1.5mに達する十四試局戦はそれだけで既存の日本戦闘機を大きく上回り、その大きさからくる視界、特に着陸時の下方視界の悪さが特に問題となった。
三菱側では視界に関しは計画要求段階での重要項目に入っていないこと。艦上戦闘機ではなく陸上戦闘機である為、着陸時の視界不良に関しては艦戦ほど考慮してはいないこと。敵機との格闘戦が主目的ではなく、視界は二の次であることを説明した。
小福田大尉はそれでも視界を向上できないか訪ねるが、その場合操縦席、そして風防を高くする必要があり、結果空気抵抗の増大に繋がると説明を受けた。
最終的には小福田大尉も妥協し、だが実施部隊に配備されればいずれ問題となるだろうと懸念する。そしてこの視界不良が後々まで問題となるのであった。

続いて第二次、第三次木型試験を経て、いよいよ実機の製作に取り掛かった。
だが開発サイドに問題が発生する。まず計算担当の曾根技師が過労により三ヶ月の休養を指示され設計チームから外れる。ついで主務者である堀越技師が過労でチームを離れる。トップ2名が外れた十四試局地戦闘機設計チームであったが、三菱にとって戦闘機担当の設計チームは堀越技師を中心とする1チームしかなかったのである。このため攻撃機担当であった高橋技師が後を引き継いだのである。(堀越技師は曾根技師の回復を待ってから交代で休養に入った。)
開発は1941年(昭和16年)12月下旬より組立作業に入ることとなる。当初のスケジュールより2〜3ヶ月の遅れではあったが、当時の状況から考えれば許容範囲内であり、作業員達は正月返上で作業を続行。1942年(昭和17年)1月及び2月に構造審査が実施される。第二次構造審査後の2月8日に全ての図面が出図され2月末の完成を目指した。
その間、太平洋戦争での零戦の戦訓がもたらされた。2月2日に行われた十四試局戦・性能研究会の席上、ボルネオ島で行われた台南空零戦隊によるB-17邀撃の際の戦訓により十四試局戦の武装強化案が提示された。零戦と同等の武装ではB-17撃墜は難しく、20o機銃4丁装備と弾数増加が求められた。

十四試局地戦闘機J2M1の1号機は2月28日に完成。27日・28日には完成審査が行われた。
続いて試作8号機までの組み立てに着手。同時に1号機による各種試験が行われ、3月20日に初飛行が行われた。製作工場である三菱名古屋航空機製作所から分解輸送され、広い霞ヶ浦航空隊基地に運び込まれた十四試局戦1号機は三菱のテストパイロット志摩操縦士により初飛行を行い、再整備後再び分解輸送され鈴鹿航空基地に送られた。ここでの飛行試験の最中に脚出し操作に不具合が発生する。十四試局戦は電動駆動を採用しているが、この技術的問題点が露呈した。
尚、この問題に関し降着装置担当の加藤技師が初飛行時の霞ヶ浦出張時に患った風邪により肺炎を起こして4月に病死してしまう。また主務者であった堀越技師も十七試艦戦(後の『烈風』)開発の為十四試局戦チームから離れ相談役に回ることとなった。
十四試局戦は最後まで設計サイドの不幸を引きずることとなる。

十四試局戦は5月末になって海軍側の操縦者によって飛行されることとなる。海軍側で初飛行を担当したのは審査主務者であった小福田大尉であった。第一印象は木型審査当時と同様視界が良くない大きな飛行機というものであったが、滑空速度は大きいが低速時の操縦性は良いであった。離着陸時の視界不良と着速の大きさは高性能の代償としてやむえないと判断した大尉であったが、その後大尉が6空飛行隊長として空技廠を離れると、後任には帆足工大尉が着任した。
だが帆足大尉が審査を続けるうちに海軍として三菱側に改修要求が出される。
 
(1) 前下方、後下方の空戦視界の改良と風防全般にわたるゆがみの除去
(2) 夜間着陸に備えて、零戦程度にまで視界を向上させること
(3) VDM2プロペラピッチ変更機構の改良
(4) 最大速度、上昇力が計算値よりも劣る為、発動機の出力強化

この海軍から提出された改修項目のうち、プロペラ・発動機に関しては官給品(発動機は三菱製ではあるが)である為、機体設計の改修項目は視界の向上に集中することとなった。だが設計側にしてみれば『いまさら』である。木型審査はクリアーしており、また敵戦闘機と渡り合う為の機材ではなく、そもそも『零戦と同程度の視界』は最初から要求されていないのである。
だが購入(用兵)側からの要求にそぐわなければ採用されないため、十四試局戦の改修が行われていく。

改善策として風防の大型化と平面ガラスの採用。背の低い風防を下方へ広げることとなる。
発動機は三菱:火星一三型(十三試へ号改の制式採用型・MK4Cに強制冷却ファン搭載したモデル)から、水・エタノール噴射装置を装備し、ブースト圧を高めた火星二〇シリーズの内、延長軸と強制冷却ファンを装備した火星二三型が海軍から指示され採用となった。こにより離昇出力が1430馬力から1850馬力に変更。一段二速過給機第一速の公称馬力は1400馬力から1720馬力への向上した。だが問題点もあった。許容ブースト圧を上げただけの発動機では全開高度が下がり、第一速時の全開高度が2700mから2100mへ。第二速でも6100mから5500mへと下がっている。
プロペラは元々電気式ピッチ変更機構に故障が多く不評だった為、住友側がハミルトン油圧式変更機構を取り付けることとなった。またプロペラ枚数も3枚から4枚へと変更する。これを十四試局戦改良型に採用した。

この改修項目によって変更された機体を十四試局地戦闘機改(J2M2)と称する。そしてこれが雷電一一型として制式採用されることとなる。
尚、試作機であるJ2M1は当初予定の試作機数は8機であったが、結果的には3機のみが完成したに過ぎない。


雷電一一型(J2M2)
十四試局地戦闘機改(J2M2)の1号機は1942年(昭和17年)10月に完成する。資料(主に堀越氏の回想録)ではこの完成によって『雷電』一一型の制式採用となったとする場合があるが、実際には翌1943年(昭和18年)後半(少なくとも7月以降)のことである。
(注) もし昭和17年に制式採用となっているならば、十四試局戦の名称は『二式局地戦闘機』となっていた可能性が大である。
さらに海軍航空本部第二部の纏めた『海軍現用機性能要目集』によると制式採用は1944年(昭和19年)10月と記されているという・・・が、まぁ10月以前の機体胴部に『雷電一一型』(136号機)と表示されている機体がある為、19年10月説は無いだろう。
J2M2はJ2M1での改修項目の他に排気管の変更も行われた。従来の集合排気管から単排気管に変更し、合わせてロケット推進効果を狙った推力式単排気管方式を取り入れている。この方式は戦争中盤以降の陸海軍各機で採用されていくが、日本での採用はJ2M2が一番最初であった。

武装は性能研究会での強化案が取り入れられ、翼内装備の九九式20o二号機銃三型(大型弾倉100発入り)となり、従来の一号機銃(60発入り)よりも弾速・弾数共に向上している。

J2M2の初飛行は1942年(昭和17年)10月13日である。試験飛行の結果、発動機の振動問題が発生する。これは最後まで『雷電』に付きまとう問題であった。発動機を取り付ける架台の防振ゴムを改良することにより僅かに振動を抑えることに成功するが、根本的な解決とはならなかった。
発動機の振動とプロペラの曲げ振動が共鳴し、さらに延長軸によってさらに振動が増幅する為、最終的にはプロペラ減速比の変更と不平衡重錘の位相を選択することによってある程度振動を抑えることが出来たという。同様の振動問題は十五試陸爆(後の陸上爆撃機『銀河』)でも発生していた。
だがこのプロペラ不平衡重錘の位相試験を行っていた帆足大尉はJ2M2の2号機で試験飛行中に低高度で急に機首が下がり墜落。大破炎上し、大尉は殉死を遂げた。

事故を起こした2号機は直ちに三菱により事故調査が行われたが原因は不明。
殉死した帆足大尉の後任としてJ2担当主務者となったのが、大尉の前任者として十四試局戦の木型審査に立ち会った小福田少佐(当時は大尉)であった。
2号機墜落事故の原因が判明したのは、事故から3ヶ月が過ぎた9月のことであった。
三菱テストパイロット・柴山操縦士がJ2M2 10号機にて飛行中に同様の機首下げ姿勢となる現象が発生した。原因は脚を上げた(収納)直後に発生した為、とっさに脚を出したところ機首は元に戻った。これが原因と直ちに着陸後に調査した所、原因を特定できたという。

結局振動問題はこれといった解決策が見出せないまま実戦運用がされることとなるが、この問題の解決策が見つかったのは終戦直前の時期であり、実用機には間に合わなかった。
もう一つ、発動機の油温過昇問題もあったが、この問題も滑油冷却器の能力向上をもって解決となるまで時間を要することとなる。
J2は発動機関係の不具合により実用化に1年近く空費する羽目になった。



海軍に引き渡されたJ2は最初J2M1、ついでJ2M2と順次引き渡され、実用実験を担当する横須賀航空隊に配備される。ただし、狭い追浜基地ではやりにくいため、当初実用実験は木更津基地で行われる。当時J2を担当した操縦者は分隊長白根大尉以下、東山少尉、羽切飛曹長ら4〜5名であり、そうそうたるメンバーであった。

彼らのJ2評は概ね以下のようなものであった。
『前方視界が不良。離着陸がやりにくい』
『後方視界は見えにくいが、見えなくて困るほどではない』
『速度が落ちると舵の効きが悪くなる。好評の横転もさほどではない』
『利点は速度と上昇力だけ』
『空中機動はダイブはいけるが、空戦フラップを効かせても旋回性能は悪い』
ただ、前記の発動機振動問題に関してはあまり話題にならず、開発陣が必死に改修した点が伺える。

また前線(ラバウル)からの意見書が届けられた。
海軍に引き渡し当初J2に乗った羽切飛曹長が1943年(昭和18年)7月に204空分隊士としてラバウルに向かった。当時ラバウルでは米戦闘機との空戦で一撃離脱に徹せられ零戦での捕捉が難しくなっていた。そこで羽切飛曹長が思いついた『J2なら勝てる』を意見書として纏め、ソロモンでのJ2の必要性を訴えが横空に届けられた。
これによりJ2は実戦試験(熱帯地における耐熱試験)を兼ねて、近くラバウルに向かう予定だった豊田飛曹長(横空→251空転属)にJ2を持っていってもらう計画を立てた。
ようやく許可の下りたJ2M2『雷電』一一型のラバウル配備であったが、結局この計画は中止となった。
その代わり、『雷電』を配備する航空隊の編制へと進むこととなり、最初に『雷電』を配備することとなったのが新設の381空である。



雷電二一型(J2M3)
制式採用化された局地戦闘機・・・以後の乙戦(乙種戦闘機=邀撃任務機)『雷電』ではあるが、主力生産期となったのはJ2M3『雷電』二一型である。
1942年(昭和17年)2月に行われた開戦当初の戦訓を含んだ性能研究会の席上で提案された武装強化案。これを実現し、実際に量産化したのが二一型であった。
一一型との相違は武装が20o機銃が2丁から4丁装備に変更された点である。
当初の九九式一号20o機銃を二号機銃に変更したのは一一型の項目で書いたが、二一型ではさらに強化案として対重爆邀撃戦闘には役立たずの7.7o機銃を撤去し、20o二号機銃(翼内機銃)の外側にさらに20o一号機銃を増設したのである。
4丁の各機銃にはベルト給弾式で各200発装備、合計800発を装備した。
この翼内機銃の増設に伴い主翼の強度を高め、さらに400ノットの急降下制限速度を維持出来るように改良された。

また燃料タンクも改修され、耐弾性の向上と、主翼内タンクに限ってだが炭酸ガス方式自動消火装置(一一型の途中から)と、胴体内タンクへのゴム張りによる外張り式防弾タンクが装備されるようになった。

当時、邀撃戦闘機の必要性が急上昇していた海軍の『雷電』にかける期体は大きかった。同時期に開発されている乙戦のうち、試作段階に入っていたのは試製『紫電』が試作一号機が完成していたに過ぎず、他の機種は試作機すら完成していなかった。(最終的には開発中止)
このため『雷電』は一一型すら数が無いうちに大量生産計画が立てられ、二一型の完成したのが1943年(昭和18年)10月にも係わらず、昭和18年度中に540機、翌19年度には1575機の生産計画が立てられたほどである。

だが、『雷電』の振動問題に端を発する開発の遅れは航空本部に関心を薄れさせていく。また開発の遅れ故に米軍機の性能と比べ、際立った高性能機とは言えなくなって行くにつれ、生産計画は縮小していく。さらに実戦部隊からの不評がこれに輪をかける結果となった。
だがそれでも『雷電』の生産と部隊配備は続き、海軍の防空戦力の一端を担っていくこととなる。


『雷電』二一型の主要データ(一部のみ)
全幅 10.80m 自重 2490kg
全長 9.695m 全備重量 3440kg
全高 3.875m 主翼面積 20.05u(翼面荷重:171kg)
最大速度 611km/h(330ノット) / 高度6000m
上昇力 6000mまで5分50秒 (実用上昇限界:11520m)
航続距離 1898km(1025浬) / 352km/h(190ノット)
武装 九九式二号20o機銃四型×2(弾数各210発)
九九式一号20o機銃四型×2(弾数各190発)
60kgまたは30kg爆弾×2発

雷電三二型(J2M4)・三三型(J2M5)・他
1944年(昭和19年)1月、航空本部は三菱に対しターボ過給機装備付『雷電』の開発を内示した。噂されるB-29に関する情報が纏まり始め、およその性能が推定された為、これに対応できる航空機の必要性が増したからである。
だが当時『雷電』は一一型が少数生産されただけであり、二一型が常用試験の最中であった。そのため部隊配備も381空と301空に少数機が配備されたに過ぎなかった時期である。
航空本部からの内示に対し三菱は試案を纏め、2月8日に空技廠で行われた研究会で説明。これを受けて航空本部は2本立てで改修計画を決定する。それは既に完成している『雷電』を用いて応急改造を空技廠で行う方法と、本格的開発・改造を三菱に行わせる2本立ての方法であった。

空技廠では既存の二一型を使用してターボ過給機を組み込み改造を始める。実験色の強い本機は排気移送管も剥き出しのまま7月頃に完成する。
尚、この7月に空技廠飛行実験部は廃止され、業務は新設された横須賀航空隊審査部に引き継がれている。もっとも実質的には同じであり、名称が変わっただけに過ぎなかったが。
空技廠改造機はブースト全開高度こそ上がったが、タービン関係の管制装置の不備、コンプレッサー効率が悪いなどの問題により高度10,000mへの上昇時間こそ短くなったが、その高度での飛行は苦しいというものであった。

一方、三菱による改造機はJ2M4の名称を与えられ開発が行われた。空技廠改造機と違い、ターボ過給機を収納する為に機首部が200o延長され、合わせて発動機後方の滑油冷却器をカウリング前縁部に移す。カウリング正面開口部も広げられ、強制冷却ファンも大型化されれた。
常に問題となっていた発動機の防振対策も強化される。
尚、発動機は二一型と同様に火星二三型甲だがターボ過給機が搭載されたことにより『雷電』三二型の名称が与えられている。
完成は8月であり、8月4日に完成審査を受けた後、9月24日に初飛行を行った。
追浜の横空審査部による飛行実験の結果、空技廠より良好と判断されたが、それでもさしたるタービンの効果なしと判定された。
その後302空に引き渡され試用されたが、結局モノにはならなかったという。

さらにもう一つの『雷電』改造機が存在する。大村の第二一航空廠が改造したターボ過給機装備機だが、詳細は不明。

以上のように二一型にターボ過給機を装備した各改造機は軒並み失敗、ターボの効果なしという判定を受けている。このため『雷電』の改造は同時期に行われた既存技術による性能向上機へと転換さることとなった。J2M5の名称を持つ『雷電』三三型である。

三三型はそれまでの発動機・火星二三型甲を二六型甲に変更したものである。これは全開高度をアップさせた高高度性能向上型であり、合わせて機体各部も改修されている。
視界改善策として風防の高さ・幅を増やし、合わせてカウリング上部後縁から風防までの膨らみを削ぎ落とす事により視界改善を図った。さらに空気抵抗を減らす為、滑油冷却器の配置変更と空気取り入れ口の小型化などである。ちなみにこれらの改造案はターボ過給機装備機でも実施される予定であったという。
三三型の試作機は一一型からの改造により5月には完成し、5月20日に初飛行を行っている。
生産型の三三型は1945年(昭和20年)2月に横空審査部にて試験飛行を受け、当時軒並み性能低下(粗悪乱造の為)している他の機種に比べ、大いに注目されることとなった。



その他の改造機

期待されることとなった三三型ではあったが、装備発動機である火星二六型甲は直に数が揃わない。そのため『雷電』は開発当初より不評であった視界不良問題だけでも改善すべく三〇型の機体を製造していく。
J2M6 三一型がそれであり、これは二一型と同じ火星二三型甲を装備した機体である。1944年(昭和19年)6月以降、三菱・鈴鹿工場で数十機が製造され実戦部隊に配備されている。
他にJ2M7 二三型が存在し、これは二一型の機体に火星二六型を装備した機体や、武装を4丁全て長砲身の二号銃に改造したした二一型甲(J2M3a)などであるが、いずれも試作又は極少数機が作られた。

一方、形式番号に現れない改造も行われている。
『雷電』各機は生産途中から前部風防内に防弾用樹脂ガラスが装着され、既存機体に取り付けられるようになる。だが防弾ガラスは各型の標準装備となるが、視界を妨げ、重量が増えるからと部隊によっては除去するケースもあったという。

さらにプロペラの換装が行われた。1944年(昭和19年)末以降の生産機からはプロペラの付け根部分が従来品より幅広のタイプに換装された。これにより高空性能が向上し、ようやく10,000mへ上がれるようになったという回想もある。