解説 |
前身である気球隊を連隊に改編(昭和11年平時編制全面改正)し、航空科から砲兵科に移管された。
支那事変では独立気球第一〜第三中隊を編制して作戦に参加。
ノモンハン事件でも臨時独立気球中隊を編制して作戦に参加したが、ソ連軍航空機により制空権を獲られ、少なからず損害を出している。
太平洋戦争開戦時には独立気球第一中隊を編制しマレー作戦に参加。シンガポール攻略作戦における重砲兵部隊の射撃観測に協力し成果を上げている。その後フィリピンに転用され第二次バターン攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加する。
だがその後は戦局悪化と制空権の問題により気球に活躍の機会は無く、防空気球部隊へと改編される。
さらに気球連隊の転機が訪れる。1944年(昭和19年)9月より参謀総長の隷下に編入され、『ふ号作戦』を進めることとなる。これは偏西風を利用した風船爆弾による米本土直接爆撃作戦である。
茨城県大津、千葉県一宮、福島県勿来に展開し、極秘作戦として放球を開始する。(その後平市(現:福島県いわき市))に移動)
戦果は風船爆弾約15000個を放球し、若干数が米本土に落下して森林火災を引き起こしている。 |