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歩兵第四二五連隊 |
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通称号 |
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護北二二四五三 |
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編成 |
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1945年(昭和20年)5月9日 |
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編成地 |
旭川 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第一四七師団 |
千葉県茂原 |
解説 |
護北兵団(第一四七師団)として本土決戦に備えて編成された連隊であり、歩兵第四二五〜四二八連隊の4個連隊は共に兄弟連隊である。
沿岸防衛師団として留守第七師団を再動員して編成された。
同師団の中でも歩兵第四二五〜四二七連隊の3個連隊は貼り付け部隊と位置され、歩兵第四二八連隊が打撃反撃連隊とされた。
だが本土決戦、米軍の関東地方上陸に備えて千葉県茂原に移動。九十九里浜に防衛陣地を構築し、帝都の太平洋沿岸防御陣地を構築しつつ終戦を迎えた。
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歩兵第四二六連隊 |
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通称号 |
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護北二二四五四 |
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編成 |
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1945年(昭和20年)5月9日 |
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編成地 |
旭川 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第一四七師団 |
千葉県茂原 |
解説 |
護北兵団(第一四七師団)として本土決戦に備えて編成された連隊であり、歩兵第四二五〜四二八連隊の4個連隊は共に兄弟連隊である。
沿岸防衛師団として留守第七師団を再動員して編成された。
同師団の中でも歩兵第四二五〜四二七連隊の3個連隊は貼り付け部隊と位置され、歩兵第四二八連隊が打撃反撃連隊とされた。
だが本土決戦、米軍の関東地方上陸に備えて千葉県茂原に移動。九十九里浜に防衛陣地を構築し、帝都の太平洋沿岸防御陣地を構築しつつ終戦を迎えた。
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歩兵第四二七連隊 |
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通称号 |
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護北二二四五五 |
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編成 |
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1945年(昭和20年)5月9日 |
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編成地 |
旭川 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第一四七師団 |
千葉県茂原 |
解説 |
護北兵団(第一四七師団)として本土決戦に備えて編成された連隊であり、歩兵第四二五〜四二八連隊の4個連隊は共に兄弟連隊である。
沿岸防衛師団として留守第七師団を再動員して編成された。
同師団の中でも歩兵第四二五〜四二七連隊の3個連隊は貼り付け部隊と位置され、歩兵第四二八連隊が打撃反撃連隊とされた。
だが本土決戦、米軍の関東地方上陸に備えて千葉県茂原に移動。九十九里浜に防衛陣地を構築し、帝都の太平洋沿岸防御陣地を構築しつつ終戦を迎えた。
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歩兵第四二八連隊 |
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通称号 |
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護北二二四五六 |
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編成 |
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1945年(昭和20年)6月7日 |
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編成地 |
旭川 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第一四七師団 |
千葉県茂原 |
解説 |
護北兵団(第一四七師団)として本土決戦に備えて編成された連隊であり、歩兵第四二五〜四二八連隊の4個連隊は共に兄弟連隊である。
沿岸防衛師団として留守第七師団を再動員して編成された。
同師団の中でも歩兵第四二五〜四二七連隊の3個連隊は貼り付け部隊と位置され、歩兵第四二八連隊が打撃反撃連隊とされた。
だが本土決戦、米軍の関東地方上陸に備えて千葉県茂原に移動。九十九里浜に防衛陣地を構築し、帝都の太平洋沿岸防御陣地を構築しつつ終戦を迎えた。
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