サンフランシスコ講和条約
1951年(昭和26年)9月8日



 
講和条約までの流れ
  第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約(『日本国との平和条約』)である。

1951年(昭和26年)9月 8日 調印
1952年(昭和27年)4月28日 発効 ・・・そして日本の独立が回復した。

サンフランシスコ平和会議には日本を含む52カ国が参加した。だがすべての国が調印したわけではない。
ソ連・ポーランド・チェコスロヴァキアの3カ国は調印していない。
またインドは会議そのものに参加しなかった。(但し講和条約発効後、自主的に戦争状態の終結を宣告している。)
インドネシアは調印したものの批准しなかった。
ビルマは不参加。
台湾(国民党政府)は講和条約を締結したが、中国(共産党政府)は参加を認められなかった。

この条約によって日本は政治および経済条項で特別の義務あるいは責任が課せられなかった。また賠償についても日本の弁済能力が不十分なことを認めて、役務賠償や連合諸国による在外資産の管理や処分を明記したものの、連合諸国は条約に特に定めがない限り賠償請求権を放棄すると規定されていた
領土問題に関してはいくつかの遺恨を残した。沖縄などの諸島は米国信託統治下とされたが、千島列島・南樺太に関しては帰属する国家を明記しなかった。

実は当初計画された米国の対日講和はもっと懲罰的なものであったという。
領土問題・・・沖縄・北方領土の割譲。
日本国憲法に規定された基本的人権の保障。
政府機関による超国家主義的なイデオロギーの情宣活動の禁止。
監視機関の設置と、極東委員会構成国大使からなる大使理事会・監視委員会の設置
25年間再軍備禁止及び軍需生産の禁止。
極東委員会の決定を尊重する賠償の実施。
(注:極東委員会とは日本占領の国際的な管理機関)

これらの講和条件は1947年(昭和22年)3月に連合国軍最高司令官マッカーサーによって早期講和条約の提唱がなされたが、これを受けた米国国務省が講和条約案を作成した際に上げられた講和条件であった。
米国は極東委員会構成国に対して対日講和予備会議はの開催を提案したが、ソ連・中国(国民党政府)の反対により挫折する。一方、米国内でも冷戦外交を唱導する国務省政策企画室よって対共産主義勢力に対して警戒が不十分であると批判した。
問題は日本の地政学的な意味からくる重要性であった。日本をソ連の勢力圏下に陥らせることなく米国の同盟国とすること。あるいは悪くても中立国にとどめる必要が有った。そのために日本を政治的に安定化させる必要があり、結果として日本に対する経済復興政策を推進する必要が有ると政策企画室は提言した。これを達成させる為に講和条約締結を延長し、6年8ヶ月にもおよぶ長き占領体制が続けられた。
またこの体制を続ける為に、国務省政策企画室長ケナンはマッカーサーと協議。結果、講和条約案を『簡潔かつ一般的で懲罰的でないものにする』といった方針を打ち出した。1948年(昭和23年)10月、国家安全保障会議は政策企画室の提言を正式に採択した。

1949年(昭和24年)9月、米国務省は英国の要請により早期講和を推進する特に決定する。
しかし統合参謀本部に戦略上の問題点の協議検討した依頼した結果、
(1)日本本土への米軍基地保持は講和条約締結後も必要である。
(2)ソ連・中国(共産党政権)も参加した上での全面講和が必要。 
以上2点の条件を提示してきた。この2点は相容れないとみた国務省は統合参謀本部と対立し、以後対日講和は止まってしまう。

1950年(昭和25年)3月、対日講和の担当者に国務省顧問ダレスが就任する。6月に来日したダレスはマッカーサーを説得して新戦略構想を提案する。これは日本全土を潜在的な軍事基地と考え、自由に使用できるようにするというものであった。
以後この構想の下に米政府の対日講和が推進されていく。

またこの時期、朝鮮戦争が勃発した。ダレスは対日講和条約が懲罰的な条約とならないように心がける。これは第2次世界大戦の原因ともなったヴェルサイユ条約の二の舞とならないようにする為であった。
日本を同盟国(もしくは中立国)としておくために必要であるとして米大統領トルーマンを説得、対日講和を推進した。
だが12月には中国軍の介入により朝鮮戦争は米軍は不利になる。再び対日講和に反対する統合参謀本部を説得し、講和を進めるが、翌1951年(昭和26年)1月〜2月再び悪化する。在日米軍の殆どすべてを朝鮮半島に投入した場合に備えての予備兵力として、日本軍の再軍備を迫る。結果講和条約の前提条件として再軍備が決定。当時の総理大臣 吉田茂はこれを受け、警察予備隊(後の自衛隊)を発足させることとなった。

一方英国をはじめとする諸外国との交渉も再開された。
英国の主張は日本の経済活動を制限しようとする方向で進められたが、最終的にはダレスが説得し、これを押さえる。また中国問題揉めることとなる。当時の中国は国民党政府が台湾に脱出後崩壊しており、1949年(昭和24年)に建国された共産党政府『中華人民共和国』によって統治されており、これを認める英国との間で折り合いはつかなかった。そのため中国政府と国交を樹立するか否かは講和時ようやく締結後に日本側の判断に委ねられた。

また国内でも講和条約締結にあたって問題が発生していた。
日本国内では全面講和か単独講和かと国論を2分されたのである。
当時の吉田内閣及び保守派(自由党・日本民主党)は単独講和を支持した。一方全面講和を支持したのは日本共産党であった。社会党は朝鮮戦争の中国軍介入により次第に右派やむなしとして単独講和に傾いた。
結局、講和条約と、それに付随する日米安保条約に絡んだ賛否により国内は分裂したが、国会による批准は講和・安保ともに多数決で可決された。(全般的には講和条約よりも安保に反対する方が多かったのだが)
だが、裏では講和条約により日本の独立回復が出来た本当の理由の一つとして、ダレスに要請された『中国共産党政府を承認しないと誓約する吉田書簡』の存在があったためである。

サンフランシスコ講和条約は締結された。
だが、先にも述べた通り単独講和(多数講和)であった。この講和条約で国交が回復しなかった残りの国家とはその後順次国交を回復して行く。

1954年(昭和29年)、ビルマ(現:ミャンマー)
1956年(昭和31年)、ソ連
1957年(昭和32年)、チェコスロヴァキア・ポーランド
1958年(昭和33年)、インドネシア
1972年(昭和47年)、中華人民共和国

以上である。

1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効・・・これにより正式に第2次世界大戦は終結したのである。
  
講和条約要旨
日本と連合国との戦争状態の終了(第1条 (a) )
日本国民の主権の回復(第1条 (b) )
日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条 (a) )
日本の台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条 (b) )
主権を持っていた千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条 (c) )
南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条 (d) (f) )
南西諸島や小笠原諸島を合衆国の信託統治に置くことの承認(第3条)
賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する。(第14条 (a) 1 など)
  
国籍問題
講和条約締結・発効に基づき領土の範囲が正式に変更された。だが本条約には国籍が変わる場合の条項が明文化されていなかった。しかし国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした通達『平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について』(昭和27年4月19日民事甲第438号法務府民事局長通達)により、朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。(台湾の場合は、実際には日華平和条約の発効時とされるが)