帝國海軍の戦艦(4) |
長門級 |
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長門・陸奥、ともに戦前の日本海軍を象徴する超々怒級戦艦である。 本級は大正5年度計画で建造された八八艦隊計画の第1号である。世界初の16インチ砲塔載戦艦として建造され、完成時には世界最強の戦艦として誕生した。世界最大の戦艦、大和級が国民にも公表されることが無く竣工し、沈んでいった為、当時の国民にとってはまさに象徴であり、海軍そのものであったという。設計段階が第1次世界大戦の時であり、当時最大級の一大艦隊決戦、ジュトランド海戦の教訓を取り入りることが出来たため、これらの戦艦をポスト・ジュトランド型戦艦と称する。 主な教訓としては大落下角度で打ち込まれる敵弾に対する水平防御力と水中防御の強化、それと高速性能である。これを取り入れ、かつ世界初の16インチ砲塔載によって、最強の戦艦を手に入れることが出来た。しかしこの結果、各国の戦艦建造競争が激化したため、世界は軍縮条約へと進むこととなる。 ワシントン軍縮会議で、各国の戦艦保有数を決める際に、陸奥の処置が問題となった。現在建造中の戦艦は総て破棄という条項に陸奥があたるのである。日本は陸奥を既に竣工したものとして条約を進めたが、結局陸奥を保有するかわりに、英米の戦艦保有数を増やすということで条約は締結された。 大正12年の第1次改装で煙突まわりの形状が変更された。竣工後まもなく1番煙突の排煙が艦橋に逆流したため煙突キャップを設けたが、上手く処理できず、誘導煙突型に変更された。これにより煙突がより長く、力強いイメージとなり長らく国民に親しまれた。 昭和9年から第2次改装に入り、大規模な改修を行った。主な改修点は水平防御力の強化、砲塔・弾薬庫の強化、バルジの増設、速力増加にあわせての艦尾延長などである。 開戦時には長門は連合艦隊旗艦として山本五十六大将が座乗していた。本土に待機していたが、ハワイ作戦に対する支援として出撃するも、これはなんの成果もなかった。その後戦艦の活躍する機会もなく、時が過ぎていく。そして昭和18年6月8日、陸奥はなんら戦局に寄与することなく失われた。柱島泊地において第3砲塔付近で爆発・爆沈してしまった。(原因は謎である) その後も長門はマリアナ沖海戦に参加するも機動部隊の護衛とてであり、敵艦隊と砲火を交えることは無かった。続く捷1号作戦では栗田中将貴下の第2艦隊・第1遊撃部隊としてレイテ湾海戦に参加。サマール沖海戦で米護衛空母部隊に対し、初めて主砲の砲撃を行った。 終戦時には横須賀にあって、唯一戦闘可能な戦艦として残存した。(燃料がなかったが) 長門は戦後、米国に賠償艦として引渡された。その後ビキニ環礁での原爆実験の標的艦として使用された。 1946年(昭和21年)7月25日、ビキニ環礁で行われた原爆の水中爆発実験において、艦尾に損傷するも抜群の耐久力を示し、同時に標的にされた他の戦艦を含む艦艇が沈んでいく中、ただ1艦浮きつづけたと言う。そして7月29日夜、誰も見守ることのないままビキニの海底に静かに沈んでいった。 |
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(各艦の戦歴)
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