帝國海軍の海防艦

占守級

本級は北方警備(北洋漁業保護)を主任とし、有事には掃海と護衛に当たるために建造された軍艦である。
1917年(大正6年)にロシア帝国崩壊し、ソビエト連邦成立にともない、千島列島〜カムチャッカ周辺に出没しはじめたソ連海軍により、日本の北方漁船団が排除されるという事件が発生する。そのため、同方面の漁獲の一部が奪われ始めたため、漁業権益保護の為に海軍の艦艇が派遣されることになった。当初は旧式化した二等巡洋艦や駆逐艦が派遣されていたが、1930年(昭和5年)のロンドン軍縮会議によって駆逐艦の保有制限が発生した為、従来派遣されていた旧式駆逐艦(主に楢型、後に峯風型)に代わって新造駆逐艦を配備する余裕もなくなってきた。さらに厳冬期のオホーツク海で作戦するには、それ専用の耐氷構造、耐寒設備が必要ということもあり、結果北方警備専用の艦艇を建造することが決定した。

建造当時『海防艦』は軍艦籍であった為、小型艦でありながら菊の紋章を艦首につけていた。(1942年(昭和17年)7月の類別変更により補助艦籍に変更され、同時に菊の紋章も取り外された。)
これは対外交渉を行うことも考慮した結果であり、駆逐艦では軍艦としては認められておらず、軍艦籍を持つ艦艇として海防艦に類別すべきだとされた為である。
この結果、以後同様の小型警備艦艇には海防艦籍が与えられ、終戦まで続くこととなる。戦時中は主に船団護衛に従事したが、決して船団護衛目的で建造されたものではなかったのである。
海防艦=護衛艦艇というイメージ故に使用されたが、元々が北方警備に適した艦型の為、大量建造には向かない設計であり、なにより対潜装備はなきに等しかった。にも関わらず以後の海防艦は総て占守級が基本となったのである。
当初は昭和5年の@計画で計画された1,200t級海防艦であったが、予算が成立したのはB計画においてであった。本来設計は艦政本部でおこなわれる予定だったが、他の艦種を優先させる都合から三菱重工に外注された。
結果としてこれが非常に凝った、小型艦にしては過剰な装備ともいえるものになった。北方警備故の耐氷、耐寒設備の充実化、船首楼を付け舷側を高く設計し波の高い北洋での行動に支障が出ない様配慮した設計、菊の紋章を持つ軍艦としての様式等の理由によるものである。

『占守』級は4隻が建造されたが、当初の目的通り北方警備に配備されたのは2番艦『国後』以下『八丈』『石垣』の3艦だけであり、ネームシップの『占守』は第二遣支艦隊に配備、その後南遣艦隊に配属され1941年(昭和16年)12月の開戦を迎えた。
その後南方方面に回され、船団護衛や上陸作戦支援に投入されたが、1944年(昭和19年)に損傷・修理を機会に北方に配備され、本来の任務に戻ることになったが、その時には『『石垣』は戦没しており、ついに姉妹艦4隻が揃う事はなかった。



(占守級の要目)
基準排水量 860t
全長(L) 78.0m
水線長(W.L) 76.2m
最大幅(B) 9.1m
主機 ディーゼル2基2軸
4,200馬力
速力(K.NT) 19.7ノット
航続力 16ノット/8,000海里
武装 主砲 (大正)三年式十二センチ平射砲:単装砲×3基
機銃 九六式二十五粍高角機銃:2連装機銃×2基
爆雷 九四式爆雷投射機(Y砲)×1基
爆雷投下台×6基
九五式爆雷×18個
同型艦 4隻



(各艦の戦歴)

占守 1940年(昭和15年) 6月30日 三井造船玉野で竣工
7月15日 第二遣支艦隊に編入
1941年(昭和16年) 1月 北部仏印進駐作戦に参加
開戦時 南遣艦隊に所属
南方部隊マレー部隊第2護衛隊としてマレー半島上陸作戦支援に従事
1942年(昭和17年) 7月1日 軍艦籍から除外され、独立した海防艦籍になる
大戦中 主に南方方面にて船団護衛任務に従事
1944年(昭和19年) 11月25日 マニラ湾口西方にて被雷損傷(艦首大破)
1945年(昭和20年) 1月20日〜 舞鶴工廠にて艦首付け替え工事、着手
4月10日 第一護衛艦隊第一〇四戦隊(新編)を編制
終戦時 残存 復員輸送任務に従事し、後賠償艦としてソ連に引渡

国後 1940年(昭和15年) 11月3日 日本鋼管鶴見造船所で竣工
(10月3日竣工とする資料も有り)
舞鶴鎮守府・大湊要港部に編入
1941年(昭和16年) 11月20日 単冠湾に到着、機動部隊入港に備えて移動哨戒任務に従事
開戦時 津軽防備部隊として津軽海峡の海上交通線保護に従事
1942年(昭和17年) 1月8日 千島方面防備部隊に編入
6月 アリューシャン攻略作戦に参加
7月1日 軍艦籍から除外され、独立した海防艦籍になる
1943年(昭和18年) 7月22日 キスカ撤収作戦に参加
8月1日 千島方面根拠地隊に編入
3月15日 北東方面艦隊千島方面根拠地隊となる
1944年(昭和19年) 12月5日 第十二航空艦隊千島方面根拠地隊となる
1945年(昭和20年) 4月10日 大湊警備府第一〇四戦隊に編入
終戦時 残存 復員輸送任務に従事
1946年(昭和21年) 6月4日 御前崎付近で座礁、放棄

八丈 1941年(昭和16年) 3月31日 佐世保工廠で竣工
舞鶴鎮守府に編入
3月31日 第二遣支艦隊に編入
南支・仏印方面で行動
10月1日 大湊要港部に編入
開戦時 津軽防備部隊として津軽海峡の海上交通線保護に従事
1942年(昭和17年) 1月8日 千島方面防備部隊に編入
7月1日 軍艦籍から除外され、独立した海防艦籍になる
12月1日 千島方面根拠地隊に編入
1944年(昭和19年) 1月4日〜 大湊入港、訓令工事に着手
4月1日 千島方面において船団護衛任務に従事
1945年(昭和20年) 5月11日 占守島付近で爆撃を受け中破
終戦時 舞鶴にて修理中に終戦を迎える

石垣 1941年(昭和16年) 2月15日 玉造船所で竣工
開戦時 舞鶴鎮守府(大湊要港部)警備艦として千島方面(幌筵島)に進出し防備任務に従事
1942年(昭和17年) 7月1日 軍艦籍から除外され、独立した海防艦籍になる
11月26日〜 千島方面・アッツ島船団護衛任務に従事
1943年(昭和18年) 10月8日 千島方面にて米潜水艦『S44』を撃沈
1944年(昭和19年) 2月25日 大湊警備府に編入
5月31日 松輪島西方で米潜水艦『ハーリング』の雷撃を受け戦没




擇捉級

太平洋戦争開戦前、南方航路の護衛任務が急務となり、大量に必要となった海防艦(護衛艦艇)を補うべく建造されたのが本級であり、開戦を目前に控えた昭和16年7月の出師準備計画に基づく艦艇戦時建造計画『(マル急)計画』で計画された艦である。
しかし元来日本海軍にこのような艦種を建造した経験が無く、艦隊決戦至上主義においては傍流となる海上護衛に関して研究を怠っていた為、適当な大きさの占守級を基本と、若干の改良を加えた建造されたのが本級・擇捉級である。
建造期間を短縮するために艦橋・上部構造物・艦首尾の部分的簡略化を実施し、所要工程数は90,000工数から70,000工数に削減した。だが基本性能は占守級と共通のため、南方方面の作戦においては不要な北洋航行用の補助缶を残したり、砲力偏重主義ゆえに対潜能力が不足していた。その為、南方作戦における船団護衛任務には不適切な艦と誕生した。
ただ、対潜能力の不足は当時の日本海軍全般における共通した欠点でもある。
また簡略化の為、工数を減少させたにも係らず、建造速度は遅々として進まず、平均建造期間が11ヶ月という有様であり、1番艦『擇捉』の竣工は1943年(昭和18年)5月であった。

本級は公式には占守級に分類される。『マル急計画』では30隻が計画されたが、その内14隻が本級であり、全艦が竣工し、内7隻が戦没した。



(擇捉級の要目)
基準排水量 870t
全長(L) 77.7m
水線長(W.L) 76.2m
最大幅(B) 9.1m
主機 ディーゼル2基2軸
4,200馬力
速力(K.NT) 19.7ノット
航続力 16ノット/8,000海里
武装 主砲 (大正)三年式十二センチ平射砲:単装砲×3基
機銃 九六式二十五粍高角機銃:2連装機銃×2基
爆雷 九四式爆雷投射機(Y砲)×1基
爆雷投下台×6基
九五式爆雷×36個
同型艦 14隻



(各艦の戦歴)

擇捉 1943年(昭和18年) 5月15日 日立造船桜島造船所で竣工
佐世保鎮守府に編入
6月1日 第一海上護衛隊に編入
門司〜高雄〜マニラ〜シンガポール間の船団護衛に従事
(ヒ03船団・ヒ04船団・ヒ07船団・ヒ11船団・ヒ12船団・ヒ17船団)
1944年(昭和19年) 12月25日 第十二航空艦隊千島方面根拠地隊に編入
翌年3月、大湊に入港
1945年(昭和20年) 4月10日 大湊警備府第一〇四戦隊に編入
終戦時 残存 復員輸送任務に従事
1947年(昭和22年) 8月5日 賠償艦として米国に引き渡されるが、呉にて解体

松輪 1943年(昭和18年) 3月23日 三井造船玉野造船所で竣工
佐世保鎮守府に編入
4月1日 第一海上護衛隊に編入
高雄〜マニラ〜パラオ〜マニラ〜高雄と船団護衛に従事
8月28日 佐世保出港、門司〜シンガポール間の船団護衛任務に従事
(ヒ07船団・ヒ09船団・ヒ10船団)
1944年(昭和19年) 5月24日 シンガポール東方にて被雷、損傷
8月22日 ヒ71船団護衛任務中、マニラ湾口沖にて米潜水艦『ハーダー』の雷撃を受け戦没

佐渡 1943年(昭和18年) 3月27日 日本鋼管鶴見造船所で竣工
佐世保鎮守府に編入、第一海上護衛隊に編入
4月18日 横須賀出港、門司〜高雄間の船団護衛に従事
7月10日 門司出港、門司〜シンガポール間の船団護衛任務に従事
(ヒ01船団・ヒ02船団・ヒ07船団・ヒ08船団)
12月23日 佐世保出港、船団護衛任務に従事
(ヒ29船団・ヒ30船団・ヒ49船団・ヒ50船団・ヒ70船団)
1944年(昭和19年) 8月22日 ヒ71船団護衛任務中、マニラ湾口沖にて米潜水艦『ハーダー』の雷撃を受け戦没

隠岐 1943年(昭和18年) 3月28日 浦賀船渠で竣工
佐世保鎮守府に編入、第二海上護衛隊に編入
4月20日〜 横須賀を出港、船団護衛に従事
以後、横須賀〜トラック間の船団護衛任務に10回従事
1944年(昭和19年) 7月18日 横須賀鎮守府部隊に編入
7月22日〜 横須賀を出港
横須賀〜父島間の船団護衛任務に従事
11月21日 父島からの帰途途中、雷撃を受け中破
11月24日〜 横須賀入港、修理(〜1945年(昭和20年)2月末)
1945年(昭和20年) 3月5日 第一護衛艦隊第一〇三戦隊に編入
3月8日〜 横須賀を出港
黄海方面で船団護衛任務に従事
7月15日〜 釜山を出港
南鮮方面で行動
終戦時 残存
8月20日 釜山港にて触雷、小破
11月20日 除籍、後復員輸送船になる
1947年(昭和22年) 8月29日 賠償艦として中国に引き渡される

六連 1943年(昭和18年) 7月31日 日立造船桜島造船所で竣工
呉鎮守府に編入、呉鎮守府部隊に編入
8月15日 第二海上護衛隊に編入
翌16日、横須賀に回航
8月21日 横須賀を出港
船団護衛任務に従事
9月2日 トラック北方において米潜水艦『スナッパー』の雷撃を受け戦没

壱岐 1943年(昭和18年) 5月31日 三井造船玉野造船所で竣工
呉鎮守府に編入、呉鎮守府部隊に編入
6月1日 呉入港、内海西部において訓練に従事
6月20日 佐伯出港、パラオ間の船団護衛任務に7回従事
1944年(昭和19年) 1月28日 呉入港、入渠(改装工事)
2月16日 門司出港
シンガポール間の船団護衛任務に従事
4月10日 第一海上護衛隊に編入
5月24日 シンガポール東方沖にて米潜水艦『レートン』の雷撃を受け戦没

對馬 1943年(昭和18年) 7月28日 日本鋼管鶴見造船所で竣工
呉鎮守府に編入、呉鎮守府部隊に編入
7月31日 呉に回航、訓練に従事
8月15日 第一海上護衛隊に編入
8月17日 門司出港
シンガポール間の船団護衛任務に従事
1944年(昭和19年) 3月1日 船団護衛任務中に徳島丸と接触、後部切断
3月31日 シンガポールに入港し修理(〜9月末)
10月12日 シンガポール出港
船団護衛任務に従事
11月15日 第一〇一戦隊に編入
高雄方面で船団護衛任務に従事
1945年(昭和20年) 4月24日 朝鮮半島木浦を出港、朝鮮方面で船団護衛任務に従事
6月2日 佐世保に入港、入渠修理
終戦時 佐世保で終戦を迎える
戦後、復員輸送任務に従事
1947年(昭和22年) 7月31日 賠償艦として上海で中国に引き渡される

若宮 1943年(昭和18年) 8月10日 三井造船玉野造船所で竣工
呉鎮守府に編入
8月30日 第一海上護衛隊に編入
門司を出港し、高雄〜マニラ〜シンガポール間の船団護衛任務に従事
11月16日 門司、入港
11月20日 門司、出港
ヒ21船団護衛任務に従事
11月23日 高雄に向け航行中、舟山島南方において米潜水艦『ガジョン』の雷撃を受け戦没

平戸 1943年(昭和18年) 9月28日 日立造船桜島造船所で竣工
横須賀鎮守府に編入、横須賀防備戦隊に編入
11月1日 第二海上護衛隊に編入
11月14日 館山、出港
トラック・サイパンへの船団護衛任務に従事
1944年(昭和19年) 3月22日 木更津、出港
サイパン・ダバオへの船団護衛任務に従事
7月17日 第一海上護衛隊に編入
8月6日 佐世保、出港
マニラ・シンガポールへの船団護衛任務に従事
9月5日 シンガポール、出港
9月12日 海南島東方において米潜水艦『グローラー』の雷撃を受け戦没

福江

天草

満珠

干珠

笠戸




御蔵級

擇捉級に続き建造された海防艦であり、『マル急計画』で計画された30隻の内の16隻が本級の予定であった。
戦局にあわせ、南方地域での運用と対潜装備の充実を図って建造されたが、残念ながら不十分であった。
元々擇捉級とは別の新設計にする予定だったが、完成を早める為に擇捉級の船体をそのまま利用した。これは軍令部の要求である主砲の12cm砲の高角砲への変更と、爆雷装備の強化が可能と判断された為である。しかし戦局の消耗戦にたいする認識の低さから量産に適した形とは言えず、徹底を欠いたと言える。

主砲は上記の様に占守級、擇捉級で採用された(大正)三年式十二センチ平射砲(G砲)から、高角砲に改装した十年式四五口径十二センチ高角砲に変更された。これは海防艦が海戦に参加する可能性は少ないとの事により御蔵級以降の海防艦は高角砲を採用することとなる。
御蔵級は3門の高角砲を搭載したが、これは全部に波対策として砲盾を装備した単装砲1門、後部に2連装砲をむき出しで搭載している。
また対潜能力の向上の為、爆雷の強化が図られている。占守級、擇捉級では1基だった九四式爆雷投射機(Y砲)も2基に増強され、爆雷搭載数は120個とされた。(擇捉級や駆逐艦では通常36個)
その一方で、掃海具(パラベーン)を装備しており、掃海任務にも使用する予定であった。
海防艦ではこの御蔵級以降、初めから艦橋前に対潜砲を1門据え付けている。これはとても取り扱いの容易な砲だが、砲自体を船体に固定している為、使用するには艦首を敵潜水艦に向ける必要があった。この対潜砲は本来陸上で使用される三式(八センチ)迫撃砲であり、元は陸軍の九七式曲射歩兵砲(迫撃砲)である。最大射程2,800mだが、実際の現場では射程500mに固定して使用するケースが多かったという。
同様の対潜砲は英海軍のヘッジホッグなどにも見られるが、本対潜砲は単装であること、固定砲であることから、ほとんど戦果はなく、敵潜水艦撃沈確実の記録は無いとのことである。

当初『マル急計画』で計画された16隻の内、9番艦(第328号艦)『日振』以降は工事の簡略化が行われており、別艦種として分類されている。(改御蔵級(日振級)。ただし、設計的には鵜来級である。)
尚、完成しなかった分の予算は全て鵜来級に回されている。




御蔵級の要目
基準排水量 940t
全長(L) 78.8m
水線長(W.L) 77.5m
最大幅(B) 9.1m
主機 ディーゼル2基2軸
4,200馬力
速力(K.NT) 19.5ノット
航続力 16ノット/5,000海里
(新造時) (戦時増強時)
武装 主砲 十年式四五口径十二センチ高角砲:単装砲×1基
十年式四五口径十二センチ高角砲:連装砲×1基
機銃 九六式二十五粍高角機銃:2連装機銃×2基 九六式二十五粍高角機銃:3連装機銃×5基
九六式二十五粍高角機銃単装機銃×1基
対潜砲 三式迫撃砲(8cm対潜砲)×1基
爆雷 九四式爆雷投射機(Y砲)×2基
爆雷投下軌条×2基

九五式爆雷×120個
九四式爆雷投射機(Y砲)×3基
爆雷投下軌条×2基

九五式爆雷×120個
その他 掃海具(パラベーン)×2基 無し
同型艦 8隻



(各艦の戦歴)

御蔵

三宅

淡路

能美

倉橋

屋代

千振

草垣




日振級

戦局の消耗戦に御蔵級では建造が追いつかないため、工事を徹底的に簡略化したのが本級であり、御蔵級の9〜11番艦と、改D計画によって予算成立した内の8隻が御蔵級の簡略型として計画された。
予算の一部が御蔵級から成立しているため、兵装の殆どを御蔵級から引き継いでいる。
一方、船体は完全に鵜来級である。これは一工場(日立造船桜島造船所)で量産する都合であり、鵜来級とするべき艦である。実際には鵜来級(大型掃海具装備型)なのだが、一番艦の艦名から日振級とされる。
建造自体は短期間での建造が可能となり、平均4.4ヶ月/1隻で建造していったが、計画艦11隻中9隻が竣工、2隻は未成である。

対空兵装は戦訓を受け、ほとんどの艦が計画時より増強して完成している。
一方、対潜作戦に不要な大型掃海具(パラベーン)を搭載して建造されたが、大戦後期には掃海具は撤去され、爆雷投射機を増設しているが、本来の鵜来級が三式爆雷投射機を装備していることを考えると、爆雷兵装の少ない鵜来級となってしまっていたのは残念である。



日振級の要目
基準排水量 940t
全長(L) 78.8m
水線長(W.L) 76.5m
最大幅(B) 9.1m
主機 ディーゼル2基2軸
4,200馬力
速力(K.NT) 19.5ノット
航続力 16ノット/5,000海里
武装 主砲 十年式四五口径十二センチ高角砲:単装砲×1基
十年式四五口径十二センチ高角砲:連装砲×1基
機銃 九六式二十五粍高角機銃:3連装機銃×5基
九六式二十五粍高角機銃単装機銃×1基
対潜砲 三式迫撃砲(8cm対潜砲)×1基
爆雷 九四式爆雷投射機(Y砲)×2基
爆雷投下軌条×2基

九五式爆雷×120個
その他 掃海具(パラベーン)×2基
同型艦 9隻(他に未成艦2隻)



(各艦の戦歴)

日振

大東

昭南

久米

生名

四阪

崎戸

目斗

波太

大津
(未成)

友知
(未成)




鵜来級

日振級の対潜装備を徹底したものが本級である。
当初昭和17年度のD計画がミッドウェー海戦敗戦後の9月に大幅変更した改D計画で予定された34隻の海防艦に含まれたのが本級である。
御蔵級・日振級と混乱した海防艦建造計画において、何とか整理した22隻が建造されている。(内2隻は未成艦)。他にD計画の18隻と戦時計画艦の12隻は建造中止となっている。

既存型より徹底した簡易化と建造期間の短縮を目指した設計である。
戦時標準船(戦標船)の船形、儀装の簡易化を例として極力直線構成にし、またブロック建造方式を採用した。(占守級の1/3程度の工数にまで簡略化した)

対戦兵装の増強が図られており、掃海具を装備したままの日振級とは違い、16基の爆雷投射機(片舷8基)と、艦尾に爆雷投下軌条を装備して1投射25発の爆雷を投下出来る強力なものであった。
電探も13号電探を装備したものも多かった。



鵜来級の要目
基準排水量 940t
全長(L) 78.8m
水線長(W.L) 76.5m
最大幅(B) 9.1m
主機 ディーゼル2基2軸
4,200馬力
速力(K.NT) 19.5ノット
航続力 16ノット/5,000海里
武装 主砲 十年式四五口径十二センチ高角砲:単装砲×1基
十年式四五口径十二センチ高角砲:連装砲×1基
機銃 九六式二十五粍高角機銃:3連装機銃×5基
九六式二十五粍高角機銃単装機銃×1〜4基
対潜 三式迫撃砲(8cm対潜砲)×1基
爆雷 三式爆雷投射機(K砲)×16基
九四式爆雷投射機(Y砲)×2基
爆雷投下軌条×1基

二式爆雷(もしくは三式爆雷)×120個
同型艦 20隻(他に未成艦2隻)



(各艦の戦歴)

鵜来

沖縄

奄美

粟国

神津

蔚美
(未成)

男鹿

久賀

志賀

伊王




1号型

丙型と呼ばれる海防艦である。
米潜による船舶被害が増大するにつれ、必要性が叫ばれ計画された艦であり、艦名に奇数番号を割り振られている。
基本的に鵜来級を基本とした昭和18年度計画艦であり、全132隻が計画された。その内、完成したのが53隻・未成艦12隻である。他に昭和19年度計画で168隻が計画されたが、こちらは着工に至っていない。
機関部は従来型(22号10型ディーゼル)が入手困難なため、13号駆潜艇用の小型機関(23号乙8型ディーゼル)を改良し、回転数を上げることによって2基で1,900馬力を得ている。
また船体に戦標船型を採用し、大幅なブロック建造方式の採用による量産性を考慮している。思い切った簡易型故に曲線構成を廃し、徹底的な直線構成で設計されている。この設計は耐波性、航洋性を犠牲にしてまで採用されたデザインである。
作業工数は海防艦初期の占守級、擇捉級、御蔵級がそれぞれ90,000、70,000、57,000工数だったのに対し、1号型及び準同型の2号型では28,000工数にまで減らすことに成功している。電気溶接と工事の簡略化、造船所側の努力によるものであった。同一造船所で多数建造することによる作業員の慣れもあっただろう。最大数を建造した日本鋼管鶴見造船所では同一クラスを39隻建造している。
設計開始が1943年(昭和18年)3月だが6月には完了し、9月には着工を開始した。1番艦の完成は翌1944年(昭和19年)2月末。まさしく戦時急造艦の名にふさわしい建造スピードであった。

後期建造型には本土決戦を意識して機雷敷設軌条を設けた艦も存在する。




1号型の要目
基準排水量 745t
全長(L) 67.5m
水線長(W.L) 66.0m
最大幅(B) 8.4m
主機 ディーゼル2基2軸
1.900馬力
速力(K.NT) 16.5ノット
航続力 14ノット/6,500海里
武装 主砲 十年式四五口径十二センチ高角砲:単装砲×2基
機銃 九六式二十五粍高角機銃:3連装機銃×2基
九六式二十五粍高角機銃2連装機銃×2基

九六式二十五粍高角機銃単装機銃×2基
迫撃砲 三式迫撃砲(8cm対潜砲)×1基
爆雷 三式爆雷投射機(K砲)×12基
九四式爆雷投射機(Y砲)×2基
爆雷投下軌条×1基

二式爆雷(もしくは三式爆雷)×120個
同型艦 53隻(他に未成艦12隻)



(各艦の戦歴)

1号

3号

5号

7号

9号

11号

13号

15号

17号

19号

21号

23号

25号

27号

29号

31号

33号

35号

37号

39号

41号

43号

45号

47号

48号

51号

53号

55号

57号

59号

61号

63号

65号

67号

69号

71号

73号

75号

77号

79号

81号

83号
(未成)

85号

87号

89号
(未成)

93号

95号

97号
(未成)

101号
(未成)

105号

107号

117号
(未成)

205号

207号

213号

215号

217号

219号

221号

223号
(未成)

225号

227号




2号型

丁型と呼ばれ、偶数番号を艦名にもつグループである。
1号型(丙型)と同様に計画された海防艦であり、機関を戦標船用の機関を塔載している。これは丙型に採用された23号乙8型ディーゼルの生産数が所要数を満たせないとの判断から商船用の量産型機関である単式タービン改A型を搭載して護衛艦全体の生産数を上げようとしたものである。
各兵装等は丙型と同様であり、大量生産に向いた形である。速力は丙型より向上したが、航続力が減少している。
設計・建造は丙型と同様であり、昭和18年度計画で143隻が計画されたが、その内63隻が完成・8隻が未成艦である。また昭和19年度計画でも60隻の追加が計画されたが、全て着工には至っていない。

最短建造期間のレコード・ホルダーは三菱重工長崎造船所で建造された第198号艦であり、僅か75日で完成している。



2号型の要目
基準排水量 740t
全長(L) 69.5m
水線長(W.L) 68.0m
最大幅(B) 8.6m
主機 蒸気タービン1基単軸
2.500馬力
速力(K.NT) 17.5ノット
航続力 14ノット/4,500海里
武装 主砲 十年式四五口径十二センチ高角砲:単装砲×2基
機銃 九六式二十五粍高角機銃:3連装機銃×2基
九六式二十五粍高角機銃2連装機銃×2基

九六式二十五粍高角機銃単装機銃×2
迫撃砲 三式迫撃砲(8cm対潜砲)×1基
爆雷 三式爆雷投射機(K砲)×12基
九四式爆雷投射機(Y砲)×2基
爆雷投下軌条×1基

二式爆雷(もしくは三式爆雷)×120個
同型艦 63隻(他に未成艦8隻)



(各艦の戦歴)

2号

4号

6号

8号

10号

12号

14号

16号

18号

20号

22号

24号

26号

28号

30号

32号

34号

36号

38号

40号

42号

44号

46号

48号

50号

52号

54号

56号

58号
(未成)

60号

62号
(未成)

64号

66号

68号

72号

74号

76号

78号
(未成)

82号

84号

102号

104号

106号

112号

116号
(未成)

118号

124号

126号

130号

132号

134号

138号

142号
(未成)

144号

150号

154号

156号

158号

160号

186号

190号

192号

194号

196号

198号

200号

202号

204号