帝國海軍の駆逐艦(13) 





樅級
大正6年度計画で建造された中型駆逐艦であり、峯風級の縮小版である。
第1世界大戦で大西洋まで遠征した桜級の戦訓を受け入れ、峯風級の外戦部隊用の航洋型としたのに対し、本級はほぼ同様の性能を有した艦隊護衛用として計画された。
予算の都合上、小型駆逐艦を建造して数を賄おうとしたものであるが、重油専燃缶やオール・ギア―ド・タービンの採用により高速の小型艦隊駆逐艦として通用する出来であった。

同型艦が21隻も建造されたことからも分かるであろう。
大正から昭和の発展期にかけて、日本海軍の水雷戦隊の中核をなしていた名鑑である。
1930年代に入り特型以降の新鋭艦が建造されると順次除籍となったが、一部を除いては大戦には参加しなかった。しかしこの内8隻が哨戒艇に改造され補助艦として護衛任務等に従事している。



樅級の要目
基準排水量 770t
全長(L) 85.34m
水線長(W.L) 83.8m
最大幅(B) 7.93m
主機 蒸気タービン2基2軸
21,500馬力
速力(K.NT) 36ノット
航続力 15ノット/3,000海里
武装 主砲 12p単装砲*3基
機銃 6.5o単装*2
魚雷 53p連装発射菅*2基
(搭載魚雷8本)
同型艦 21隻



(各艦の戦歴)

1919年12月27日 横須賀工廠で竣工
1932年4月1日 機関不調の為除籍
1920年3月28日 横須賀工廠で竣工
1940年2月1日 老朽化のため除籍
1920年3月21日 呉工廠で竣工
1940年10月15日 横須賀航海学校の訓練艦となり除籍
(雑役船に転籍)
1920年4月30日 呉工廠で竣工
終戦時 青島で残存 後日釜山港内で触雷 沈没
1919年12月10日 川崎重工神戸造船所で竣工
1940年2月1日 老朽化のため除籍
1919年12月25日 川崎重工神戸造船所で竣工
1940年2月1日 老朽化のため除籍
1944年2月10日 雑役船(練習船)に転籍
終戦時 舞鶴港で残存 戦後解体
1920年8月2日 浦賀船渠で竣工
1940年11月15日 雑役船(練習船)に転籍
1945年2月23日 大須と改名
終戦時 横須賀で残存 戦後解体
1920年7月20日 石川島造船所で竣工
開戦時 支那方面艦隊第2遣支艦隊に所属
1945年1月15日 高雄で空襲により沈没
1920年12月10日 川崎重工神戸造船所で竣工
1940年4月1日 第31号哨戒艇に転籍
1920年12月20日 川崎重工神戸造船所で竣工
1940年4月1日 第32号哨戒艇に転籍
1921年4月20日 浦賀船渠で竣工
1940年4月1日 第33号哨戒艇に転籍
1921年5月25日 石川島造船所で竣工
1940年4月1日 第34号哨戒艇に転籍
1921年5月31日 藤永田造船所で竣工
1940年4月1日 第36号哨戒艇に転籍
1921年6月30日 川崎重工神戸造船所で竣工
1940年4月1日 第35号哨戒艇に転籍
1921年10月29日 川崎重工神戸造船所で竣工
1940年10月15日 雑役船(練習船)に転籍
1944年12月15日 第2泊浦と改名
終戦時 東京港内で擱座残存 戦後解体
1922年3月23日 浦賀船渠で竣工
1940年4月1日 第37号哨戒艇に転籍
1922年7月31日 浦賀船渠で竣工
開戦時 支那方面艦隊上海方面部隊に所属
終戦時 青島で残存 戦後解体
1923年3月31日 石川島造船所で竣工
1940年11月15日 雑役船(練習船)に転籍
1945年2月23日 三高と改名
終戦時 残存 戦後解体
1922年8月19日 石川島造船所で竣工
1940年4月1日 第38号哨戒艇に転籍
1921年12月19日 藤永田造船所で竣工
1927年8月24日 美保ヶ関沖で軽巡神通と衝突 沈没(美保ヶ関事件)
1922年7月31日 藤永田造船所で竣工
1940年4月1日 第39号哨戒艇に転籍