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帝國海軍の重巡洋艦(5) |
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利根級
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本来、最上級として計画されていた本級は竣工が条約明けになるため、当初より20.3p砲搭載艦として建造された重巡洋艦である。ただし予算成立時には軽巡洋艦として通っているため、艦名命名基準は軽巡洋艦のものが適用された。
本級は日本海軍中、もっとも独特な形をした巡洋艦である。
船体前部に主砲4基8門を集中配備し、後部を水上機運用甲板とした。
この主砲配置は砲戦を行う上で砲火の集中・集中防御・砲撃の余波が飛行機に与える影響が少ないなどの効果がもたらされるが、船体バランスが崩れるとしてあまり採用される方式ではなかった。
また主砲が船体後方に対し射界が制限されるといった事も考えられたが、実戦では特に問題とはならなかった。
この艦型になった理由には諸説あり、後部の飛行甲板にのみ注目され、航空巡洋艦として知られているが、当時計画中であった大和級戦艦の主砲配置実験用として行われたとも言われている。
(大和級にはこのような主砲の前方集中配備案も存在した)
後部甲板も明らかに砲塔2基を搭載する計画であった造りになっており、段差のある飛行甲板は航空巡洋艦として見た場合、明らかに中途半端であったといえる。
ただし、結果的に最上級よりも砲塔が1基減った分、艦内スペースに余裕が出来、居住性はよかったと言われる。
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利根級の要目 |
(新造時) |
(最終時 利根) |
基準排水量 |
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11,213t |
全長(L) |
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201.6m |
水線長(W.L) |
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198.0m |
最大幅(B) |
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19.4m |
主機 |
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艦本式高中低圧式タービン4基4軸
152,000馬力 |
速力(K.NT) |
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35.5ノット |
航続力 |
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18ノット/8,000海里 |
武装 |
主砲 |
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20.3p連装砲*4基8門 |
高角砲 |
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12.7p連装高角砲*4基8門 |
魚雷 |
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61p3連装発射管*4基 |
機銃 |
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25o3連装機銃*12基36門 |
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25o連装機銃*6基12門 |
25o連装機銃*4基8門 |
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25o単装機銃*18基 |
航空兵装 |
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カタパルト2基
水偵6機 |
カタパルト2基
搭載機は全て陸揚げ |
同型艦 |
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2隻 利根・筑摩 |
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(各艦の戦歴)
利根 |
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1938年11月20日 |
三菱造船所長崎で竣工 |
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1941年9月 |
出師準備工事完了 |
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1941年12月8日 |
開戦時第2艦隊第8戦隊に所属 |
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南雲機動部隊・支援隊として真珠湾作戦に参加 |
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1942年1月 |
ラバウル攻略作戦に参加 |
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1942年4月 |
インド洋作戦に参加 |
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1942年6月 |
ミッドウェー作戦に参加 |
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1942年7月 |
第3艦隊第8戦隊に編入 |
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1942年8月24日 |
第2次ソロモン海戦に参加 |
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1942年10月26日 |
南太平洋海戦に参加 |
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1943年3月 |
対空兵装・電探等の装備を追加 |
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1944年1月 |
第3艦隊第7戦隊に編入 |
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1944年6月19日 |
マリアナ海戦に参加 |
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1944年10月25日 |
レイテ沖海戦に参加 |
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1944年11月 |
内地へ帰投・損傷修理 |
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1945年1月 |
呉練習戦隊に編入 |
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1945年3月 |
米軍機の空襲を受け損傷 |
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1945年7月24日 |
米軍機の空襲を受け損傷・船体着底(終戦を迎える) |
筑摩 |
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1939年5月20日 |
三菱造船所長崎で竣工 |
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1941年9月 |
出師準備工事完了 |
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1941年12月8日 |
開戦時第2艦隊第8戦隊に所属 |
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南雲機動部隊・支援隊として真珠湾作戦に参加 |
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1942年1月 |
ラバウル攻略作戦に参加 |
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1942年4月 |
インド洋作戦に参加 |
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1942年6月 |
ミッドウェー作戦に参加 |
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1942年7月 |
第3艦隊第8戦隊に編入 |
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1942年8月24日 |
第2次ソロモン海戦に参加 |
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1942年10月26日 |
南太平洋海戦に参加 |
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米軍機の攻撃を受け損傷・内地へ回航・修理 |
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1943年2月 |
損傷修理完了 |
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対空兵装・電探等の装備を追加 |
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1944年1月 |
第3艦隊第7戦隊に編入 |
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1944年6月19日 |
マリアナ海戦に参加 |
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1944年10月25日 |
レイテ沖海戦に参加 |
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サマール沖海戦で米軍機の攻撃を受け損傷 |
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駆逐艦 野分の雷撃により処分 |
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