九九式艦上爆撃機 |
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開発までの経緯 | |||||||||
1935年(昭和10年)、海軍は当時最新鋭の正規空母『蒼龍』に搭載する艦上爆撃機を検討した際、全金属製とした高性能艦上爆撃機を求めた。だが『蒼龍』就役まで時間が無い為、当面を愛知の九四式艦上軽爆機の改良型か中島の八試特殊爆撃機のいづれかを九六式艦上爆撃機として採用し、その間に高性能機を調達する予定であった。 (結果は九四式艦上軽爆機(後に艦上爆撃機と呼称変更)の発動機を変更しただけのマイナーバージョン機を九六式艦上爆撃機として採用した。) さて、高性能艦爆を求める海軍は、航空廠が余裕をもって試作する方針を固めたが、肝心の艦爆を独自に開発するだけの技術力がまだなかった。その為ドイツのハインケル社に直接新型機(単座もしくは複座の全金属製艦爆)の発注を計画する。これを十試艦爆と称するが、計画は中止された。 当時海軍はハインケル社の旅客機He70をモデルとして考えており、同機の輸入を行っている。これは「高性能艦爆の実験用」と説明していた。 |
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十一試艦爆の開発 | |||||||||
全金属製単葉艦爆の国内開発は十一試艦爆の名称で三菱と中島に発注された。愛知は九四式艦爆の製造と九六式艦爆の試作を命じられていた為、発注されなかった。 当初の予定ではし1936年(昭和11年)後半に試作発注、翌年12月に三菱・中島のどちらかを採用する方針であった。 だがこの予定は途中1年ほど延期されることとなる。これにより愛知でも新型艦爆開発のチャンスが回ってきた。 九六式艦爆の試作を完了した愛知に対し、十一試艦爆の追加発注がされる。(三菱・中島に対しても同時に発注) 試作を開始した愛知では試作1号機が1937年(昭和17年)12月に完成。中島との間で審査検討されることとなった。(三菱は木型審査段階で辞退) 愛知十一試艦爆はハインケル社He70を参考としており(中島十一試艦爆はノースロップ社ガンマ攻撃機)、全金属製低翼単葉形式。主翼・尾翼には空力特性に優れた楕円テーパー翼を採用し、実用性を重視した固定脚、主翼下面の急降下制動板を装備する。運動性能を重視し、二戦級の戦闘機とであれば空戦も可能な操縦・空戦性能と自衛用の7.7o機銃を前方固定銃2丁と旋回式1丁を装備した。 審査結果は愛知の方が速度・操縦性を含めた実用性で勝ると評価され、1939年(昭和14年)12月に九九式艦上爆撃機一一型として正式採用された。 だが量産にあたり試作機が装備した中島製発動機『光』は、三菱の『金星』四四型に換装され、また試作段階から問題となっていた不意自転対策として背びれが追加されるなどの改修が行われた。 |
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九九艦爆の後を継ぐものと二二型の開発 | |||||||||
全金属製低翼単葉機ではあったが、固定脚を持ち、見た目で旧式な印象を与える九九艦爆であるが、当初の予定では1942年(昭和17年)末には後継機である新型艦爆(十三試艦爆、後の『彗星』艦爆)に交代する予定であった。だが後継機の開発が遅れ、結局1944年(昭和19年)6月の『あ号作戦(マリアナ海戦)』まで第一線で運用され続けることとなる。 太平洋戦争開戦直後の1942年(昭和17年)初め、後継機十三試艦爆の開発が遅れることが確実となった為、急遽一一型改修機による追加量産が決定した。 これは一一型改修案として研究されていた発動機の変更を行ったものであり、仮称一二型と呼ばれる。一一型の発動機『金星』四四型を同五四型に変更し、合わせて機種周りの再設計を含めた改良型であり、試作は同年4月に完成。8月より量産に入る。尚、この機体は九九艦爆二二型と称され、翌昭和18年1月より正式採用された。 九九艦爆には初期の一一型と改良型(後期型)の二二型の2タイプが存在することとなり、二二型は開発元の愛知の他に昭和飛行機が転換生産を行っている。 総生産機数は1,515機(1,486機 ?) また一部の二二型は本来後部席にはない操縦装置を追加し、練習機として生産されている。(仮称九九式練習爆撃機一二型) また終戦間近には資材不足から全木製化を検討している。これを『明星』と称したが、実際には空技廠が開発した木製練習機である。九九艦爆を基本として全木製化を図ったが、そのままでは困難な為再設計が行われた。 開発は空技廠、生産は松下飛行機。7機が生産され、テスト段階で終戦を迎えた。 |
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九九艦爆の実績 | |||||||||
太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃を始め、戦争初期の九九艦爆の戦果は非常に高かった。だがそれは艦爆としての機体性能以上に熟練のベテラン搭乗員達の名人芸ともいうべき卓越した能力によるところが大きかった。その極め付けが第一航空艦隊、所謂南雲機動部隊が1942年(昭和17年)4月に実施したインド洋作戦であろう。 インド洋の英海軍要衝セイロン島を攻撃すべく出撃した南雲機動部隊の5隻の空母『赤城』『蒼龍』『飛龍』『翔鶴』『瑞鶴』(『加賀』は損傷して本土に帰投)は4月5日セイロン島のコロンボを空襲した。第一次攻撃隊がコロンボ空襲を行い、帰艦する間に重巡『利根』の索敵機が付近を航行中の英巡洋艦『ドーセットシャー』『コーンウォール』を発見した。艦隊はコロンボに対する第二次攻撃隊として雷撃機である九七艦攻を対地爆撃装備に兵装転換中であったが、直ちに雷装に戻し、発見した2艦に対する準備を開始する。一方緊急発進した待機中の九九艦爆53機(『赤城』『蒼龍』『飛龍』の艦爆隊。指揮官は蒼龍飛行隊長 江草少佐)は英巡洋艦『ドーセットシャー』『コーンウォール』に殺到し、攻撃開始僅か20分足らずで2艦を撃沈した。この際の爆弾命中率は88%を記録している。 また英空母艦載機を発見し、付近に居る可能性大と判断した艦隊はいったん英軍哨戒圏から離脱。迂回して再度接近した4月9日にツリンコマリーを空襲。(艦爆隊は参加せず) その間に戦艦『榛名』の索敵機は英空母『ハーミズ』を発見した。直ちに機動部隊から九九艦爆85機が発進、『ハーミズ』攻撃開始から僅か15分で撃沈することに成功した。この時の爆弾命中率は82%に達し、まさに艦爆隊の腕は神掛かったものであった。 尚、このインド洋作戦において、この2ヶ月後に行われるミッドウェー海戦に非常に酷似した場面が多々見られる。ミッドウェー海戦において第一次ミッドウェー島攻撃隊が攻撃後に第二次攻撃隊の必要ありと連絡が有った後、対米空母用に待機していた対艦攻撃飛行隊を兵装転換するという事態が発生している。まさに同様の事態がこのインド洋作戦中に発生し、またその後発見した米空母に対し再度の兵装転換を行っている。違うのはインド洋では艦爆隊が直ちに出撃し、巡洋艦2隻を撃沈し、また英空母を撃沈した。 一方ミッドウェーでは艦爆隊は出撃を止められ、結果出撃直前に米艦爆隊の攻撃により作戦参加した主力空母4隻を失った。 日本艦爆隊の神様とまで言われた江草少佐はミッドウェー作戦では出撃することなく終わった。 1942年(昭和17年)8月、連合国軍は対日反攻作戦開始にあたり、まずソロモン諸島南端に位置するガダルカナル島に上陸を開始した。同島は米豪分断作戦、豪ポートモレスビー進攻に先駆けて建設した海軍の最前線飛行場があった。連合国軍はこの飛行場の完成を待って、奪うべく上陸作戦を展開した。以後これが日本本土、そして沖縄へと続く連合国軍による反攻作戦の第一歩となった。 ガダルカナル島をの奪回を目指す日本軍はラバウルを中心にソロモン方面に多くの艦艇、航空機を投入し、血みどろの戦いを始める。そして九九艦爆もこのソロモン航空戦に投入され、多くの機体を失った。 当初ラバウル〜ガダルカナル島間に使用できる飛行場は存在せず、両島の距離は560海里(約1,000km)であった。これは長大な航続距離を誇る海軍の零戦でさえガダルカナル島上空に留まれるのは15分に過ぎず、九九艦爆では往復することさえ叶わなかった。だが連合国軍のガダルカナル島上陸を知った海軍・第十一航空艦隊司令長官塚原中将はラバウルの第二五航空戦隊司令官山田少将に対し、ラバウルの使用可能全機をもって攻撃を命じる。ラバウルに展開していた九九艦爆隊は第二航空隊所属の16機であった。井上文刀大尉指揮する九九艦爆9機は最初から片道攻撃を決行し、ガダルカナル島近海の連合軍艦艇を攻撃、駆逐艦2隻を撃破したと報告した。だが被害は大きく被撃墜2機、未帰還4機、海上不時着3機と出撃した全機を失ったのである。 これがガダルカナル島を巡るソロモン航空戦における九九艦爆の最初の出撃であった。 以後、中間地点に建設されたブイン基地の完成を待って同基地に進出。以後出撃し続けるが艦爆隊の被害は膨大なものとなっていく。 出撃すればまず帰ってくることは叶わない・・・この考えが九九艦爆を『九九式棺桶』と揶揄した原因であった。 それでも他に使用できる機体は無く、後継機たる十四試艦爆・・・後の『彗星』艦爆の登場まで待たなくてはならない。結果、1944年(昭和19年)6月に行われた『あ号作戦(マリアナ海戦)』まで九九艦爆は主力艦爆として出撃し続けたのであった。 『彗星』配備後、九九艦爆が全て退役出来たわけではなかった。『彗星』は当時の日本軍が使用するには非常に問題のある発動機を装備しており、非常に稼働率が低かった。高性能を求めたあまり扱いの慣れていない液冷発動機を採用していたのが原因だった。そのため部隊では予備機として九九艦爆を使い続けた部隊もある。 だが『あ号作戦』後、航空隊の改編により基地配備の艦爆装備の航空隊の多くが解隊され、また米艦隊の対空砲火をくぐり抜けて投弾するには急降下爆撃という戦法そのものが非常に難しい状況となっていた。発動機を空冷化し稼働率を向上させた『彗星』であっても艦爆隊としての働くには非常に無理があったといえる。 そして九九艦爆には最後の勤めが待っていた。特攻機としての使用である。 各タイプ合計で1,500機以上が生産された九九艦爆ではあったが、終戦時に残ったのは135機だけであったという。 |
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